2009年5月27日水曜日

Contents

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Breguet, his age and his contemporaries
ブレゲのいる風景

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 ブレゲのいる風景 -Preface-
 ブレゲとジョン・アーノルド(1)
 ブレゲとジョン・アーノルド(2)
 ブレゲとジョン・アーノルド(3)
 ブレゲとジョン・アーノルド(4)
 ブレゲとジョン・アーノルド(5)
 ブレゲとジョン・アーノルド(6)
 ブレゲとジョン・アーノルド(7)



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David Report/ダビド・レポート
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 ダビド・レポート -Preface-
 ダビド・レポート (1)
 ダビド・レポート (2)
 ダビド・レポート (3)
 ダビド・レポート (4)
 ダビド・レポート (5)
 ダビド・レポート (6)
 ダビド・レポート (7)
 ダビド・レポート (8)
 ダビド・レポート (9)
 ダビド・レポート (10)
 ダビド・レポート (11)
 ダビド・レポート (12)


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Dubois Depraz/デュボア・デプラ
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 デュボア・デプラ -Preface-
 デュボア・デプラ (1)
 デュボア・デプラ (2)
 デュボア・デプラ (3)



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Dollar Watches/ダラー・ウォッチ列伝
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 ダラー・ウォッチ列伝 -Preface-
 ダラー・ウォッチ列伝 (1)
 ダラー・ウォッチ列伝 (2)
 ダラー・ウォッチ列伝 (3)



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This table of contents last updated at August 19, 2009

2009年5月26日火曜日

ブレゲのいる風景 -Preface-

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アブラハム・ルイ・ブレゲ
Abraham Louis Breguet 1747-1823
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機械式時計の歴史を振り返ってみるとき、ブレゲほど天才の誉れの高い時計師は他にいないように思われます。ブレゲは時計史に名高い数多くの発明を残しました。トゥールビヨン、ブレゲ・オーバーコイル、ペルペチュエル、パラシュートなどに代表されるブレゲの発明の数々はそのどれもが時計史上意義深く、とても興味深いものです。

こんな沢山の発明をしたブレゲとは一体どんな人だったんだろう?

そう思ってブレゲの伝記類を読むようになって気づいたのはブレゲの人間としての魅力です。ブレゲについて調べるうちに私はブレゲの発明よりもむしろその人生の軌跡の方により魅了されるようになりました。ここではブレゲの歩んだ興味深い人生の断片を堅苦しくなくご紹介出来たらと考えております。

なお、ブレゲの人生の軌跡というのは大ざっぱに見て以下の7つのピリオドに分けられるかと思います。

1. 幼少期〜少年期のヌシャテル時代…………………1747-1762
2. ベルサイユ〜パリにおける修行期…………………1762-1775
3. パリにおける新進花形時計師時代…………………1775-1789頃
4. ギデとの協働苦悩期……………………………………1787-1792
5. フランス革命による動乱〜スイス逃避時代……1789頃-1795
6. パリ復興そしてナポレオンの時代…………………1795-1817頃
7. 絶頂期…………………………………………………………1817頃-1823没


上記は私が勝手に分類したもので特に過去において学術的に分類されたものではありません。また(3)と(5)は端境期がオーバーラップしていて明確な区別がありません。また(4)はブレゲの時計師人生においても特異な時期であるため敢えてピリオドを設けました。この(1)〜(7)のピリオドを念頭に置いていただけると今後の話が分かりやすいかもしれません。

参考とした図書類の代表的なものは以下の通りです。


1."BREGUET:WATCHMAKERS SINCE 1775"
by Emanuel Breguet
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2."The History of the self winding watches"
by A.Chapuis and E. Jaquet
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3."A.L. BREGUET PENDANT LA REVOLUTION"
by A.Chapuis and E. Jaquet
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4."A.L. BREGUET Horologer"
by C.Breguet
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5."THE ART OF BREGUET"
Habsburg Fine Art Auctionners
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6."A.L.Breguet: Watchmaker to Kings"
by Thomas Engel
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7."BREGUET"
by Sir David Salomons
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8."THE ART OF BREGUET"
by George Daniels
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9."Frederic Houriet"
by Jean-Claude Sabrier
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その他参考にした図書は書き込みの都度ご案内したいと思います。

(つづく)
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2009年5月24日日曜日

デュボア・デプラ (2)

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●Watchmaking in Vallee de Joux

ここで少し、マーセル・デプラが生まれ育ったジュウ渓谷-Valee de Joux-における時計製作の歴史について復習をしたいと思います。マーセル・デプラのスイス時計史におけるポジションを確認する意味でもあります。
※画像はどこかのアトリエの窓から眺めたジュウ渓谷の眺め。昔の時計師たちは窓外にこんな風景を見ながら仕事をしていたものらしい。パチンコ屋や歓楽街らしきものの片鱗すら見えない心洗われる風景です。

ジュウ渓谷において明確に組織だったウォッチメイキングが始まったのはマーセル・デプラの生まれる大体130年ほど前、およそ1740年代を過ぎてからのことになるようであります。

"Technique and History of the Swiss Watch"(by Jaques and Chapuis)という本によるとLa Chenit出身のサミュエル・オリバー・メイラン(Samuel-Oliver Meylan)、Derriere-la-Cote出身のピエール・アンリ・ゴレイ(Pierre-Henri Golay)、ロリエン(L'Orient-レマニア創業の地)出身のアブラム・サミュエル・メイラン(Abraham-Samuel Meylan)といったジュウ渓谷出身の若い職人がそれぞれ別の都市で時計製作を学んだ後にジュウ渓谷に戻って居を定めて時計製作を始めた、とあります。

それまでにもこの地で小規模な時計製作をする者はいたようですが都会に出て親方の資格(Mastership)を取って帰ってきて弟子を使って仕事を始め た、という意味ではこの三人をもってジュウ渓谷ウォッチメイキングの祖とするようです。こうした先人たちの努力の甲斐もあってこの地における時計製作は大 いに栄えることとなり、時計士の地位は大いに向上いたしました。

この地で時計製作が栄えた理由の一つに「親方制度の廃止」があります。大体ジュネーブなど時計先進国(邦)では色々とマスターシップの制約がうるさかったのですがジュウ渓谷では「そんなもんどうだってええわ」と撤廃してしまったらしい。

前出のS.O. メイランは若い頃一度マスターシップ取得に失敗していてそのせいで弟子を取ろうとしたら他所から因縁つけられたりして余分な苦労をしたようです。そんな事 からメイランあたりは「あんな堅苦しい資格いらんわ」とマスターシップに重きをおいていなかったのかも知れません。

その結果「1800年までには時計製作はささやかな利益を運んでくる仕事として、どんなちんまい家庭においても行われるようになった」(前掲書)のであります。メイラン以後50年でジュラ渓谷は完全に時計産業地帯に変容してしまったのでありました。
※画像は朝霜の降りるジュウ渓谷の風景。風光明媚な場所でキャバクラひとつ見当たりません。

ジュウ渓谷の時計職人達は普通の時計を造っている限りにおいてはその質は周りの邦と大差ないクォリティだったそうですが、こと複雑時計のメカニズムになると彼 らの創意工夫、製造技術は他の土地に比して隔絶して優秀だったそうです。理由は判りません。そもそもが手先の器用な人たちだったんでしょうか?

ジュウ渓谷の時計製作が「半完成のムーブの迅速大量生産をする」という方法で急速に分業の度合いを強めたのはおおよそ1776 年頃からです。余りに沢山のムーブを造らなければならなかった為、ジュウ渓谷のおじさん達はある頃から「完成した時計」を造るのを諦めてしまって「ムーブ メント屋」 に徹する事になったらしい。そのムーブメントはジュネーブその他の都市に送られ、その地で脱進機が取り付けられ、検査され、仕上げられ、ケースに入れられたのでした。

※写真はLe Brassus。1890年の台風被害に遭う前の写真。

これが100年後のこの地にバルジューやレマニアやマーセル・デプラ(デュボア・デプラ)というムーブメント専業会社が出てく る素地となったと思います。

興味深い事にこの業態はマーセル・デプラが1901 年に自分の会社を設立する頃においてさえ、原則同様であったようです。マーセル・デプラはある意味この1700年代終盤から続いた業態に終止符を打った男なのですがその話はまた後で。

複雑時計の分野におけるジュウ渓谷のアルチザンたちの技量は他に比肩するものがなく、それは精緻さと美の表出だった、と前掲書に書いてあります。少し後に様々な複雑時計に対する需要が高まった時、ジュネーブの時計製造者たちは、

「何だ、オレたちはジュウ渓谷の奴らがいないと何も造れないじゃないか」

と気づいて愕然としたのだそうであります。

マー セル・デプラが生まれたのはこのようにしてジュウ渓谷が100年に亘って複雑時計の技術を濃密に蓄積爛熟させた後、そしてこの渓谷にも鉄道や電灯や蒸気機 関などの20世紀的な新技術がもたらされ、それに合わせて時計業界も変容を遂げようとしていた時期なのでありました。

※ 写真はDubois DeprazのあるLe Lieuの村。カラー写真だが建物が古いので1950年代くらいの写真ではないかと思われる。写真右の教会堂は現存。ジュウ渓谷の村々の写真を見ると、村 の中心地に教会堂があって、それに寄り添うように家々が集まっている形態のものが多いようである。



●A Brief History of Chronographes











※左の写真は初期クロノグラフというかインデペンデント・センター・セコンドのウォッチ群。左上のものがポウザイのデッド・セコンドを持つもの。




次にマーセル・デプラがその生涯を捧げたクロノグラフの歴史について手短に復習をしたいと思います。マーセルが生まれ育った時代の雰囲気を掴むためでもあります。

現代の我々が使用している機械式クロノグラフの原形を造った人はアンリ・フェレオル・ピゲ(Henri-Fereol Piguet)というスイス人でその発表は1862年のロンドン博覧会においての事でした。その特徴は、

・香箱は一つ
・スタート、ストップ、再スタートが自由に出来る
・計測後、即座にゼロ位置へのリターンが可能
・その操作中、時計本体の動きを止めることはない

という至って当たり前のものですがこんな事も長い間実現不可能だったらしいのです。特に計測後のリターン・トゥ・ゼロはピゲさんが初めて実現した機能だそうです。

マーセル・デプラが生まれたのが1874年ですからピゲ式クロノグラフの発明はその僅か12年前という事になります。つまりマーセル・デプラの青年期において クロノグラフはまだ発展途上の技術であったという事が判ります。ちなみにこのピゲ式クロノグラフには写真を見る限りコラムホイールの存在が認められるよう です。

このピゲ式クロノグラフの発表が何故イギリスだったかと言うと、発明者アンリ・フェレオル・ピゲ(ジュウ渓谷出身)は当時ニコル(Nicole & Capt.)というロンドンの会社で働いておったからでした。そしてこの会社の大将のアドルフ・ニコル(Adolphe Nicole)もジュウ渓谷出身のスイス人。ピゲ氏はこのアドルフ・ニコルに従ってロンドンで働いていたのでありました。

こういうスイス 人だがイギリスに渡ってしまった人は結構いますね。有名なところではジョサイア・エメリー(Josiah Emery)などもそういう人々の一人です。英国一流、スイス二流の時代の名残でしょうか。ニコルはロンドンに会社を構えていたが同時にジュウ渓谷に自分 の工場も持っておりました。恐らくはスイスの自分の工場で製作したエボーシュを大量に輸入してロンドンにおいて仕上げ及び販売をしていたのだろうと思われ ます。

※写真は初期のクロノグラフ群。恐らくはジュウ渓谷のピゲ一族らの手によって開発されたものであろうと思われます。下段のウォッチは何とラトラパンテであります。

結局のところクロノグラフの発展発明の殆どはジュウ渓谷で行われたというのが一番真実に近いでしょう。前出のChapuisの本によれば分積算計などの発明 はやはりジュウ渓谷において19世紀末にルイ・エリゼ・ピゲ(Louis-Elisee Piguet/クロノグラフ発明のピゲ氏とは別人)らによって行われた、とあります。ラトラパンテもこの頃の発明。


余談ながらこのルイ・エリゼ・ピゲは震撼すべき天才だったようです。世界で初めて閏年も含めたパーペチュアル・カレンダー・ウォッチのメカニズムを発明確立したのはこのルイ・エリゼ・ピゲ。それは1853年のこと、信じがたいことにピゲ君弱冠17歳の時だったそうです。

※写真はおっちゃんになってからのルイ・エリゼ・ピゲ。

このジュウ渓谷で生まれ育ったパーペチュアル・カレンダーの技術をクロノグラフやリピーターの技術同様、紆余曲折を経ながらも現代に伝えているのがジュウ渓谷のデュボア・デプラ、という事になる訳ですね(その詳細はずっと後でご説明する予定です)。







さらに余談になりますが、世界で最初にクロノグラフらしきものを造った人はどうもジャン・モイゼ・ポウザイ(Jean-Moyse Pauzait)という人でそれは1776年の出来事だったそうです。クロノグラフ機構で任意の時間が計測出来るのみならず「クロノグラフをストップして も時計本体は止まらずに動いている!凄い、奇跡だ!」という事で結構ウケたもののようです。

ただこのタイプのクロノグラフの仕組みを見て みるとそれは随分原始的なもので、中にはバーレル(香箱)が二つあってそれぞれで時計本体とクロノグラフを動かしているものがあったりします。そりゃクロ ノグラフを止めても時計本体が動き続ける筈です。あとは香箱が一つでも香箱から二系統の輪列を作ってひとつは普通の時計表示、ひとつはクロノグラフ用にしていたりします。







クロノグラフ用の輪列もおかしなウデをおかしな歯車でピコピコ往復させてその動きをクロノグラフ秒針の回転に変換する、というものだったそうです。
このタイプのクロノグラフは1860年代くらいまでは生き延びたそうですが、結局はピゲ式クロノグラフの登場によって駆逐されてしまいました。

クロノグラフは一時期は『クロノスコープ』と呼ばれていたらしい。だが大衆の間でクロノグラフという名称が定着してしまった。でもスイスにおいてすらクロノグラフとクロノメーターとの誤用があったりして業界人はクロノグラフという呼称が気に入らなかったようですが衆寡敵せず何となくこの呼称になったとのこと です。



という訳でマーセル・デプラの時代、クロノグラフは業界人の熱い視線を浴びるホットな分野であったという事を理解したところで今回は終わりにしたいと思います。

(つづく)
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2009年5月23日土曜日

デュボア・デプラ (1)

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●創立者・マーセル・デプラ/Marcel Depraz, the founder

1901 年1月1日、スイスのジュウ渓谷南西の一角を占める小さな田舎村リユ(Le Lieu)に一人の青年が時計組立の会社を設立いたしました。青年は記念すべき自分の会社に自分の名前をつけました。それが「マーセル・デプ ラ」(Marcel Depraz)、現在スイス時計業界において盛名を誇るデュボア・デプラの前々身であります。

※写真は昔のLe Lieu村。おそらく1900年前後のもの。のどかな田舎であります。

マー セルはこのリユの村でパン屋を営むユージン・デプラ(Eugene Depraz)のおそらく次男坊として1874年に生まれました。長ずるに及んで兄のパウル(Paul)は家業のパン屋を継ぎまして、弟のマーセルは時計 業を志すことになりました。"un siecle d'horlogerie compliquee-Dubois Depraz Le Lieu"(以下『DD本』と称します)によれば「マーセルの職業訓練の役を担ったのは二人の叔父だった」とあります。

なるほどジュウ渓谷の小村リユというロケーションを考えれば同渓谷内の近隣村に時計業に従事する親戚の二人や三人がいるのは全くもって自然であります。

「兄貴は家業を継いだ事だし、じゃあオレは叔父さんたちのやってる時計をやるか。元々手先は器用な方だし」

くらいの事は思ったかも知れません。

DD本にはマーセルが修行に出た年齢については書いてありません。19世紀後半という時代背景を考えれば恐らく13歳〜15歳というところではないでしょう か。ほぼ1890年頃、日本で言えば明治32年頃にマーセル少年は二人の叔父の元で毎日カチャカチャと時計製作修行に励んでいたものと思われます。


マーセルは天才肌の職人だったようです。DD本によれば修業期間中のマーセルは疑いもなく素晴らしい弟子だった、とあります。この頃のマーセルが具体的に何をしていたという詳細な記録は残っておりませんがDD本には、

「彼が特別な才能を持った生徒で創意工夫に富んでいるということは明らかですぐに認められた。彼は25歳になる前には既にモンティリア時計製造工場(la Fabrique d'horlogerie de Montilier)の工場長の立場にいたのである」*

と書いてあります。時計修行に入って10年そこそこの事です。マーセルの才能は誰にもそれと判る隠れ無きものだったのでしょう。

※画像は壮年期のマーセル・デプラ。なかなかシブいおっさんであります。


ち なみにジュウ渓谷の時計師には十代の年若い頃からメキメキと頭角を現してくる「最初から天才的だった」という人が実は少なくありません。こうした人々の出 現の仕方を見ると音楽一家に生まれたモーツァルトが最初から天才だった、という話を思い出してしまいます。200年以上の時計製作の歴史を持つジュウ渓谷 一帯は我々日本人の想像する以上に濃密な時計空間であるのかも知れません。

さて、時計人としてのマーセルの心を捉えて離さなかったのは 「リピーターウォッチ」と「クロノグラフ」の二つでした。DD本には「マーセルには複雑時計への情念、発明への沸き立つような思いがあった」とあります。 ジュウ渓谷という土地はこの頃既にスイス時計産業の中で複雑時計ムーブメントの一大供給地として名を馳せておりました。"Technique and History of the Swiss Watch"(by Jaques and Chapuis)という本によればジュネーブの複雑時計の殆どはジュウ渓谷の職人達の手を借りずには造れなかったとか。考えてみればパリのブレゲらに重要 なエボーシュを供給していたのもジュウ渓谷の人々でした。

こうした事を考えるとジュウ渓谷の小村で生まれ育ったマーセルにとって複雑系の時計は「そこにあって当たり前」のものであり、長ずるに及んでマーセルが複雑系を喜びこれに親しんだのも当然の成り行きだったと言えそうです。

で、 この工場長にまで至る時代にマーセルは複雑系の虜になるがごとく非常に勉強し、ついにはクロノグラフの原理・構造・動作というものを完璧に自家薬籠中のも のにするに至ったそうであります(Il connait parfaitement la technique du chronographe)。

「マーセル・デプラは決して諦めない男だったがその一方で彼は何事をやるにも色々な手段を使える男だった」**

「彼の用いた解決策・技術はしばしば全く斬新なものでそれは必然的にメカニズムのレベルを簡便確実なものにすると同時に結局は時計の最終的な品質を改良し信頼性を上げるものであった」***

というようなDD本の表現を見るに、不屈の精神力を持ちながらも決して頑迷ではなく、柔軟な頭脳を持って物事を成し遂げる、というマーセルの人物像が浮かび上がって来ます。

以下は余談です。
デプラ家はこの数百年はリユの村で代々過ごしておりましたが元々はフランスの出身らしい。1536年に書かれたリユ地誌を見るとどこにも「デプラ」という名 前が見あたらないのに、16世紀中後盤に書かれた別のフランスの?本には「スイスのリユからミシェル・デプラという商人がやってきた」みたいな事が書いて あるそうなのでDD本には「多分ワシらのご先祖さんは1550年頃フランスからスイスのリユに移住してきたんじゃないかと思われる」と書いてありました。 これはユグノー戦争の直前くらいの時期ですがデプラ家がユグノーであったか否かは本書からは読み取れませんでした。
※写真はリユー村のメインストリート。写真に写っている一番右の建物がマーセルの父、ユージン・デプラのパン屋さん。

独立後のマーセルの話は次の書き込みにてご紹介したいと思います。

(つづく)


*Il n'a pas 25 ans qu'il occupe deja un poste de chef d'atelier a la Fabrique d'horlogerie de Montilier.
**Marcel Depraz ne se resigne pas. Au contraire il a plusieurs cordes a son arc.
***Ses solutrions techniques souvent nouvelles conduisent ineluctablement a des simplificatiions au niveau des mecanismes, les rendant plus fiables et ameliorant ainsi la qualite finale de la montre.

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デュボア・デプラ -Preface-

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●デュボア・デプラという会社

世の中の大半の人にとって「デュボア・デプラ(Dubois Depraz)」という会社は「突然時計史に現れるナゾの会社」という感じではないでしょうか。世界初の自動巻クロノグラフの開発競争の話でエルプリメロに対抗する勢力として、

「ハミルトン〜ビューレン/ホイヤー〜レオニダス/ブライトリング/デュボア・デプラ軍団があった」

という文脈の中でクロノモジュールメーカーとして何の脈絡もなく突然現れる名前がデュボア・デプラです。私は当初「デュボア・デプラというのは1969年当時の新興ベンチャーか何かかな?」と考えたほどです。

デュボア・デプラという会社の来歴についてはなかなか資料がありませんでしたが先年、

"un siecle d'horlogerie compliquee-Dubois Depraz Le Lieu"
(複雑時計の100年/デュボア・デプラ)
※画像は同書の表紙

というデュボア・デプラの100周年記念のオフィシャル社史を入手ました。この本はフランス語で書いてあるため、私にとっては非常に難解です。ただ、辞書片手に亀よりも遅いスピードで読んで見たところ非常に興味深い内容で、中には驚くような事が書いてあったりします。

この本を手にして判った事はデュボア・デプラは新興ベンチャーどころか100年以上前からジュウ渓谷に存在するスイス時計の歴史の一翼を担う非常に由緒正しい会社であったという事です。

何だか一人で読むのも勿体ないように思ったためフランス語の勉強がてら2004年5月頃、@unitasさんという時計掲示板において「Dubois Deprazを語る」というタイトルで勝手に連載?を始めました。ですが生来の意志の弱さ、怠惰のため、途中で終わってしまって以後約5年間放置したまま今日に至ります。

今回、自分のブログを始めるにあたって当時の書き込みを再掲する事にしました。出来ればこの続きを再開したいと思っております。例えば本書に記されたDD2000の開発ストーリーなどはクォーツ・ショックに襲われたスイス時計産業がもがき苦しんだ生々しい歴史の証言となっております。いつか折を見てこのストーリーをご紹介したいと思っております。

※尚、ところどころ思い出したように原文を併記しておりますが、表記上の理由でアクサン系、セディユなどの仏文記号は省略しております。また人名、地名などの読 みは全くテキトーです。余りにヒドい間違いがあったらご指摘下さい。あとフランス語の解釈読解についてはなはだ怪しい点は平にご容赦を。 

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2009年5月22日金曜日

ダビド・レポート (4)

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●Preface of the report

ここでダビド・レポートの序言を全訳いたします。

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1877年1月22日 第1レポート
※アメリカ合衆国の時計製造について、ジュラ山地カントン連合産業委員会へのレポート


議長・会員各位

アメリカ合衆国のウォッチ製造を研究するために貴委員会の要請により派遣され我々使節団はこの度その任務に対する報告としてこのレポートを謹んで提出いたします。

このレポート完成より前にファーブル・ペレ (Favre-Perret) 氏によって行われた講演はアメリカ合衆国によって成し遂げられたウォッチ製造における計り知れない進歩を明らかにすると共に、我々の国が現在非常に憂慮すべき状況におかれている事を示す内容のものでした。

残念ながら我々もこのペレ氏の言説の全てが真実であると申し上げなければなりません。我々の競争相手は非常に強大かつ整然たる組織であります。もし我々がこれ以上の地歩を失いたく無いなら、もし我々がこの生まれて数年にしかならないにもかかわらず既に強大かつ精巧なものとなったアメリカの産業に完璧に取って代わられるのを是としないなら、今こそが真剣に努力をするべき時なのです。

アメリカの(ウォッチを機械で製造しているという)会社の風聞レベルの情報をもとにしてこの数年、スイスにおいてもさまざまなテストが行われておりました。これらのテストはごく小さな規模において、そして不満足な情報資源に基づいて行われたものであったにもかかわらずそれが明らかにしたのはもし我々がこの新しい方式を学んでそれを我々のスイス式製造法に最適の方法で導入するならば我々はアメリカにおいて得られたのと同じ結果を得ることが出来るという事です。

恐らく我々の競争相手が工場を組織するのに必要とした経費の大半を支払わずしてそれは可能となるでしょう。
よって我々は将来についてまだ失望するべきではありません。但しそれと同時に我々はこの新しい方式を学び、勇気を持ちつつも慎重にこの方式に和合せねばなりません。

我々に委託されたこの調査、本日皆様にお伝えするこの結果はやがて他の人々によって為されるであろう多くの調査の単なるファースト・ステップに過ぎないと考えていただかなければなりません。我々は彼の地で発見した事物のありようについて皆様に理解していただけるよう出来る限りの努力をいたしました。にも関わらず主として時間が不足していた事、好条件に恵まれなかった事を理由として全てにわたって詳細を検証することが出来ませんでした。さらに(彼の地における)状況は刻々と変化しているのであります。

アメリカのウォッチ工場の仕事のありようを特徴づけているのは他の分野のアメリカの会社と同様、彼らの進歩に賭ける熱意であります。彼らの組織全てを下支えしているのは彼らの製造機械を改善するための幅広い研究であり、作業の簡便化であり、労働工数の低減であり、場合によっては組織の改善でありさえします。理論的に考えてもその組織運営に関わる全てが細部に至るまで有効に作用しています。どんな細かい点も見逃されることはありません。全ての従業員の役割は明確に規定されており、正確には管理すらされています。

彼らの組織においては全ての分野における研究と調査のために巨大な場所が確保されております。ウォルサムとエルジンの工場、この二つの主要な会社はヨーロッパの巨大企業に見られるものに比肩できる完璧な技術部門を有しています。これはウォッチ産業では類例の無いものです。

我々は現時点ではこのアメリカの産業が彼ら自身が言うほどの成功、安定状態にあると認めることは出来ません。しかし彼らの採用した生産方法を以てすればこの産業が遠からぬ日に高品質を獲得するであろう事は疑いがありません。何故なら前述の技術部門が確実にこれらの会社を完きものとし、最適な工法を生み出すであろうからです。

よって1876年にスタートしたこの情報収集を継続する必要があります。そうしてこそスイスのウォッチ産業はじかにアメリカ合衆国の状況をつぶさに知ることが出来るのです。この件について、もしこの継続的な情報収集行為を実り多く、有用で正確な情報を生み出すものにしたいならば、厳守すべき重要な事項として以下の点を強調いたします。それは我々の義務であると信じます。最も重要な事は我々の収集した情報、このレポートに含まれる情報を印刷したり業界誌に発表したりしないという事です。そうすればこれらの情報がアメリカの競争相手とコンタクトを持つ人々の手に渡ることもないからです。

最も正確な情報はかの工場を訪れること、そこで働いている人々とディスカッションすること、そして工場の人間ではないが事情を良く知る人々とディスカッションすることによって直接得ることが出来ます。しかしこれらの手段は全て大なり小なりその会社の懐において行われることであるため我々が彼らの工場を訪れて人々と話すことがスイス人の情報収集行為に益することに気づいた瞬間に彼らが必ずこれを厳しく禁ずる事は明々白々です。

そうなればどの職種にある社員も仕事を失うことを恐れて我々との交渉を絶つでしょう。そしてそれは工場外の人々、メカニックやその他の人々についても同様でしょう。アメリカの会社にとってそれらの人々にスイス人を無視して沈黙を守るように説得する事は簡単でしょう。さらに我々は情報提供者の利益を守らなければなりません。その中には工場内で働いている人もおり、もしこのことが知られると彼らの立場は非常に苦しいものとなるからです。 よって何よりも先ず、現在の情報収集行為については何も喋らない事、そしてそれを見ることによってこの国にとって有用なものを引き出すことの出来る信頼のおける人物以外にはこのレポートを見せない、という事が重要なのであります。

こうした方法によって我々はこれまでに築いたアメリカの工場と密接な関係にある人々との関係を継続させ、かつ彼らから情報提供を受け続けることを期待できるのです。
我々はこのレポートを以下の7つの章に分けました。

1.アメリカの(ウォッチ)工場の数と順位
2.諸工場の財務状態
3.内部組織
4.生産量と品質
5.販売
6.製造工程
7.結論

我々は「6.製造工程」の章に製造機械のスケッチと関連情報を付け加えました。

他の章においてはアメリカのウォッチとムーブメントの現行価格表、アメリカの工場によってつくられた広告見本、そして時計製作に使用可能なツール類、機械設備類の製造所の住所をいくつか加えました。

最後に、我々はスイスの製品と直接競合すると思われるタイプのムーブメントを1ダースほど提出いたします。これらのムーブメントにはアメリカ現地で時計修理技能者が普通に入手出来る補修部品も添付いたしました。
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本レポートの序言は以上の通りです。その後1部〜7部までの詳細な各論が展開されます。それぞれに興味深いのですが個人的には「3部・内部組織」と「7部・結論」が面白く思いました。特に「7部・結論」は国を思う真情に満ちた檄文の域に達しており、このレポートが書かれてから130年経過した2006年のこんにちに読んでも思わず感動するほどの内容です。この「7部・結論」は是非訳して皆さんにも読んでいただきたいと思っております。

ところで序言を読んでお判りのようにこのダビド・レポートは「世界初?の国際的産業スパイ文書」でもあります。実際このレポートは部外秘とされ、まともに活字になったのは1992年にロンジンが歴史文書としてこれを発行したのがどうも最初のようです。でもフランス語だったので誰も読みませんでしたがある時リチャード・ワトキンス氏がこの本の存在に気づいて英語訳をして、余りに内容が面白いので自分で出版なすった、という事の次第です。

また別の意味でこのレポートが興味深いのは「同時代人がアメリカのウォッチ産業のありよう、製造方法などを詳細にレポートした唯一の資料」という点です。実際アメリカ人はウォッチ製造に忙しくて「如何にしてウォッチを造るのか」という資料を残しておく余裕が無かったようです。実際、後世のアメリカ人から見ても「どうやって時計を造ってたのかな?」と不思議な事が結構あるらしい。ダビド・レポートの持つそれに対しての回答、という興味深い面も見逃せないと思います。

16世紀に日本にキリスト教布教に来たフロイス師の書き残した文書から織田信長の人物像が客観的に浮かぶのだそうですが、大げさに言うとそんな趣があります。「そうか、アメリカ人はこういう人たちだったのか」と。

またダビド・レポートはハロルドの"American Watchmaking: A Technical History of the American Watch Insdustry 1850-1930"という本と見比べながら読むと更に興味深いものとなります。お手元にハロルド本をお持ちの方はそれとあわせてダビド・レポートをご覧になる事をお薦めします。

(つづく)
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ダビド・レポート (3)

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●Jaques went to United States

また同じく1876年、もうひとつフランションを腐らせる出来事がありました。10年間苦楽をともにしたジョルジュ・アガシ(Georges Agassiz/オーギュスト・アガシの息子)がロンジンを去ったのです。ジョルジュはもともと医学を志していたのですが親父のオーギュストに「お前はいとこのエルネストを助けなさい」と言われて無理矢理ウォッチメイキング修行をさせられた上で強制的にロンジンに入れられたのです。

親の意向で将来の夢をあきらめた、という割にはジョルジュ・アガシは誠実かつ精力的に働き、仕事面でも精神面でもよくフランションを扶けたようです。例えばある時期、オーギュスト・アガシがフランションに対して険悪な感情を持つに至った時期がありました。

「我が甥のエルネストは一体何を考えているのか。ロンジンはただ資金を食いつぶすだけで一向に成果というものが現れないではないか」

と怒気を隠さなかったらしい。オーギュスト・アガシはリタイアしたとは言っても多額の資本をロンジンに提供していたのでロンジンの経営については強力な発言権がありました。その時に二人の間に立って一生懸命取りなしたのが息子ジョルジュとジャック・ダビドだったそうです。

「お父さん、そんなに短気を起こさないでください。エルネストは一生懸命やってます。僕もジャックも必死でやってます。いつまでもこんな状態じゃありません。成果の出る日はそんなに遠くない筈です。さ、お身体に障りますから余り難しい事は考えないでお父さんは休んでいてください。絶対大丈夫です」
(※晩年のオーギュスト・アガシは長く病床にあった)

なんて事を話したのでしょうか。そこまで一心同体とも思えたジョルジュ・アガシとフランションの間柄でしたがこの1876年にジョルジュは、

「僕にはエルネストが一体何を考えているのか判らない。多分もうここは僕の居るべき場所じゃないんだろう」

とロンジンを去ってしまいました。経営方針を巡って二人の間には深刻な対立があったとの事であります。

精神的支柱の一人、ジョルジュを失ったエルネスト・フランシヨンのショックは相当なものだっただろうと想像します。アガシはロンジンを去ると"Agassiz Fils"という屋号のもと、ロンジンが訣別を宣言した方法、つまり旧来のエタブリスールの手法で造られた高級ウォッチを製作する仕事を始めたのでありました(後に両者は和解します)。

余談のつもりが飛んでもなく長くなってしまいました。私が申し上げたかった事は「ダビド・レポート」を書いたロンジンの技師長、ジャック・ダビドがフィラデルフィア博覧会を訪れた1876年がロンジンにとって如何に惨憺たる年であったかという事です。ですからジャック・ダビドは決して物見遊山、高見の見物の気持ちでアメリカを訪れた訳ではないのです。スイス時計界が自分に一体何を期待しているのか。課せられた使命の重さをひしひしと感じながらダビドはアメリカの地を踏んだことでしょう。

ここでもうひとつ余談です。この1876年、エルネスト・フランシヨンは沢山の奇妙な行動をとっています。ロンジンを工場ごと売却や移転する案をあれこれ模索していたかと思ったら今度はいきなり「もう破産だ」と伯父あてに手紙を書きます。かと思うと今度はアメリカの代理店のロベールあてに突然「ロンジン製の凄いウォッチをフィラデルフィア博覧会に出展した」という内容の意気軒昂たる?手紙を書いてみたり(フィラデルフィアに向かったペレ達にそのウォッチを持たせたようです)と、その行動を辿るとおよそやっている事が支離滅裂で理屈が通ってないような印象を受けます。これはつまり、このように迷走せざるを得ないほどフランションは経営で追いつめられていたのだなと思います。フランションは本当にもがき苦しんでいたのでしょうね。

ジャック・ダビドを三ヶ月間もアメリカに出す、という決断もそのフランションのもがき苦しんだ行動の中のひとつだと考えられます。この厳しい時期に技師長が三ヶ月もロンジンの工場を留守をするというのは由々しい事態でとても理屈の通る話ではないのですが、それでもエルネスト・フランシヨンの夢は何だったのか、彼のやりたい事は一体何だったのかという事を考えた場合、このジャック・ダビドがそれを実現するためのキーパーソンだという事は明らかなのであります。

アメリカの技術的先行に追いつけるかどうか、アメリカと戦えるかどうか、それを判断できるのはジャック・ダビドしかいない訳です。そのジャックが「自分にはそれが出来ません」と言えばエルネストにはこんなに苦しんでまで仕事を続ける理由がない。彼にはロンジンという会社を畳む以外の選択は残されていないのです。逆にジャックが「あんな事なら大丈夫、自分たちでも負けないくらいの事は出来る」と言うならばロンジンという会社は続ける価値があるでしょう。

エルネスト・フランシヨンは上のような事を考え、一種の賭けにも似た心情をもってジャック・ダビドをアメリカに送り出したのではないでしょうか。そう思う根拠はフランションが後年、ジラール・ペルゴーの知人に書いた手紙に次のような文面が残っているからです。

「ダビドはアメリカで見たものに対する驚きに充ち満ちたままスイスに帰ってきた。だが私が恐れていたのと相違して、いかなる意味においても彼は落胆していなかった。ダビドは『新しい工場を造るために我々はみんなが通るありきたりの道を真っ先に離れたんだ。我々はいかなる時間も金も無駄にして来た訳じゃない』と確信していたんだ」

この文面からはフランションはジャック・ダビドが意気消沈して帰ってきて「もうダメだエルネスト。もう我々にはチャンスなど無いんだ」と言う結論を出すかも知れないと心配していたらしい事が読みとれます。それだけにダビドが意欲と確信に燃えてアメリカから帰ってきたのを見たときは嬉しかったでしょうね。

しかしロンジンが成功物語を語る事が出来るようになったのはまだ後の話です。この時点でロンジンが来月あたり潰れるかも知れないという事実に変わりはないのです。

それにしても不思議な構図であります。1876年時点のジャック・ダビドは自国の遅れた時計産業の人々の期待と不安を一身に担ってアメリカに調査に出かけようとしているのでありますがその実、彼は今にも潰れそうな会社の年若き技師長にしか過ぎないのであります。ちゃんと旅費は貰っていたのでしょうか?滞在費は大丈夫だったのでしょうか?

そのあたりは良く判りませんがとにもかくにもジャック・ダビド31歳の夏、彼は陸路フランスの港町ル・アーブル(Le Haver)に向かい、1876年8月13日、同港を出発、そして8月23日にはニューヨークに到着したのでありました(意外に短時日で渡米出来るものなんですね)。

ニューヨークで両手を広げてジャック・ダビドを抱きかかえるようにして出迎えたのはユージン・ロベール(Eugene Robert)、アメリカのロンジン代理店の長でした。この時ロベールは深刻な事態に見舞われていました。アメリカにおけるロンジン販売が急激かつ極度の不振に陥り大量の在庫を抱えていたのです。

「見てくれよジャック。この倉庫には少なくとも4,000個ものロンジンの在庫がある。ここアメリカではこのロンジンのウォッチを欲しい奴は一人もいないんだ。一人もだ。何かが変わってしまったんだ。判るかジャック?」

ジャックはロベールの苦境を見て事態の深刻さに息を呑む思いだったでしょう。

その後ジャックは三ヶ月間かけてフィラデルフィア博覧会およびアメリカのウォッチ製造工場を精力的に視察調査し同年11月に帰国いたします。その後彼はアメリカにおける調査レポートの作成に没頭し翌1877年1月22日に「ジュラ山地カントン連合産業委員会(Intercantonal Committee of Jura Industries)」にレポートを提出する運びとなりました。これがスイス時計産業を変えた「ダビド・レポート」です。

以上、前置きが大変長くなりましたがここでようやくダビド・レポートの内容紹介に入る事が出来ます。

(つづく)
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ダビド・レポート (2)

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●Almost bankruptive company, Longines

経営難の最大の理由はこの頃のスイスの会社としては非常に例外的な事ですがフランションは「機械による新時代の時計製造を行う」という理念を掲げてそれを実行したため常に開発費が売上を上回っていたからであります。これでは商売は成り立ちません。

「フランションのやつは一体何をやってるんだ」

同郷の時計業界人でさえフランションのやっている事の意味が理解出来ずにこれを嘲笑していたそうであります。

それではフランションは何故このような理念をかかげて、社名をアガシからロンジンと変えてまで、敢えて人のやらない苦難の道を選んだのか?簡単に言ってしまうとそれはフランションが通常の人よりうんと明晰で未来の見える男だったからだと思います。

ロンジンはその前身のアガシ時代、1845年に既にアメリカに代理店を持っておりました。アメリカの代理店を経営していたのはアガシの従兄弟のオーギュスト・メイヤーという人物です。その後この代理店との関係はアメリカ側の経営者が交代しても一度も途切れることなく継続し、アガシ及びロンジンは常にアメリカからの新しい情報を入手し続けていました(この代理店がその後ウィットナーとなる)。特に1866年以降この代理店の代表となったユージン・ロベール(J. Eugene Robert)との関係は密接でした。「アメリカにおけるアガシ(ロンジン)の売れ行きがお互いの死命を制する」という大前提を良く理解した両者の間には非常に濃密な往来がありました。ロベールからは、

「今のアメリカの流行はこうだ。だからアガシの売れ行きが落ちてきた。至急これこれの対策をして欲しい」

という要請が頻繁にあったもののようです。

フランションを突き動かしたのはこのアメリカからの情報であったろうと私は想像しております。スイス時計人の殆どは1876年まで「機械による時計製造」という黒船の存在を知りませんでしたがアメリカとの間の風通しの良かったフランションらは10年以上前に「我々の商売はやがてアメリカの奴らとの競争になる」と気づいていたと思われます。またこの時代はそろそろヨーロッパにおいても産業革命の成果があまねく行き渡ってきた時期で動力、鋳造、鍛造、切削、歯車といった各種の近代工業的機械要素を時計業界に導入することが可能になって来たことも大きな理由だと思われます。先見の明のあるフランションは「絶対やれるはずだ」と考えたのでしょう。

そして1865年のある日、フランションはオーギュスト・アガシにこう切り出します。オーギュスト・アガシとはロンジンの前身アガシの創立者であります。

「オーギュスト伯父さん、今度ロンジンの地に建てる工場は全く新しい工場にしたいんです。最新の機械設備を導入して機械でウォッチを製造する今までスイスの誰もやったことのない工場です。僕が望んでいるものはリフォームではありません。レボリューションなんです。きっと成功すると信じてます」

長年コントワール(Comptoir)稼業を続けて来たエタブリスールで新時代の技術には詳しくない筈のオーギュスト・アガシでしたが、驚いたことに彼はこの甥のリスキーな提案をあっさり受け入れました。

「いいだろう、やってみなさい。今やアガシはお前の会社だ、お前の好きにしたらいい…。だがその機械設備はどうやって作るのかね?我々の周りには時計を造る者はいくらでもいるが製造機械を造ることの出来る人間はひとりもいないのではないか?」

「甥のジャック・ダビドを考えてます。奴は今パリで機械工学を学んでいますが来年卒業したらすぐアガシの手伝いをさせるつもりです」

(※ 注・会話は私の想像です。事実関係は "History of Longines"に基づいています。以下、会話が出たらそれは全部私の想像です。事実関係に間違いは無いように気を付けています。ちなみに『リフォームではなくレボリューション』というのは同書にある"There had already been effective reforms,but they were only reforms and he thought of a revolution."から採りました)

ロンジンの工場にはこのような成り立ちがあり、フランションはオーギュスト・アガシの快諾を得て勇躍、新時代のウォッチ製作に乗り出したのですがその代償は非常に高いものにつきました。まるでフランションの青雲の志をあざ笑うかのようにその後10年のロンジンは苦闘の歴史を刻むことになります。その10年間を調べるとそこには苦労、苦闘、失望そして莫大な負債しか無いような印象であります。

特にフィラデルフィア博覧会においてアメリカン・ウォッチ・カンパニーが晴れがましくも「マシンメイド・ウォッチ」の成果を誇示していた1876年はロンジンにとって最悪の年でありました。資金繰りに困窮したフランションは会社存続のために考え得る限りの方法を模索しましたがついに万策尽き果ててこの年の初め、倒産を覚悟いたします。その時にフランションがオーギュスト・アガシに宛てた手紙の文面は以下のようなものでありました。

「大変残念なお知らせをしなければなりません。現在の私が置かれた(財政的)危機、私の主要マーケットであるアメリカ市場の不調により私は破産を余儀なくされる見込みです。債権者たちが私の破産および債務免除に同意してくれる事を望むばかりですが彼らはそれに満足してくれそうでしょうか。来週の水曜日、2月9日の午後3時に事務所でお会いしたいと思います。私の置かれた立場を確認していただくと共に何かアドバイスをいただけたらと思います」

既にフランションは債務整理の話をしています。事態が如何に深刻だったかが窺えます。この手紙は"History of Longines"全体の文脈の流れの中で読むともう気の毒で読んでられないような感じです。この時、スイスでほぼ唯一の「マシンメイド・ウォッチ」の芽がまさに摘み取られようとしていたのですが、何故かこの時ロンジンは潰れませんでした。理由は良く判りません。"History of Longines"の著者も「良く判らないが潰れずに仕事を継続した」という意味の事を述べています。ひょっとしたらアガシがもう一踏ん張りして資金を拠出でもしてくれたのでしょうか?

(つづく)
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ダビド・レポート (1)

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●What was the Philadelphia Shock in 1876?

まず「フィラデルフィアショック1876って何じゃらほい?」という方もおられるかも知れませんので話はそこから始めたいと思います。

ス イスの時計産業は1850年頃には既に年産200万本ほどの時計を造っておったそうであります。1870年にはスイスの時計産業従事者は実に34,000 人を数え、 彼らの造った時計の大部分はアメリカとイギリスを含む諸外国に輸出されておりました。同時期の大英帝国時計の生産本数が20万本であった事を考えると当時 のスイス時計産業の地位がいかに突出的かつ支配的なものだったかが判ります。

そんな順風満帆に見えたスイス時計産業を襲った嵐は熾烈かつ 急激なものでありました。そしてその「近代工業」という名の嵐は新興国アメリカからやって来たのであります。その嵐はスイス・ウォッチの最重要輸出先であ るアメリカ市場を吹き飛ばしてしまいました。アメリカへの輸出本数が、

・1870年..............330,000本
・1876年................75,000本

という具合に6年のうちになんと4分の1以下にまで激減してしまったのであります。 もっとも重要な輸出先における極度の売り上げ不振。

「一体アメリカで何が起こっているのだ?」

スイス人にはその理由が良く飲み込めません。当時はテレビもラジオも電話もインターネットもGoogle検索も無かったからであります。アメリカに代理店を置いていたスイスの会社は大量の在庫を抱えて苦境に陥る事になりました。

「これは死活問題だ」

事態を憂慮したスイス時計産業人はエドアール・ファーブル・ペレ(Edouard Favre-Perret)というおじさんをつかまえて、

「おめーアメリカに行って目ん玉見開いて様子を見てこい!理由が判るまで帰って来んな!」

と 1876年、アメリカはフィラデルフィアで行われていたアメリカ建国100周年博覧会に派遣したのでありました。ペレおじさん以外にもテオドール・グリビ (Theodore Gribi)という人、何とかいう時計技術者(忘れました)など結構な人数が同行したようで一応「国際視察団」という体裁をとっていたようです。

その国際視察団がフィラデルフィアの展覧会に着いてみるとそこではアメリカン・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)が時計を製造する機械を誇らしげに実演展示をいたしておりました。

「こりゃあ一体…」

新大陸アメリカで誕生した機械群が自分たちスイス人が生まれてこの方見たことも無い方法でウォッチを能率良く製造する様子を見てペレ様ご一行は言葉を失いま す。彼らアメリカ人はその工場において1日10時間稼働、週6日稼働で2,200個もの金時計、銀時計を造るのだという。スイスでは想像の枠外の数値で す。またアメリカのウォッチは同モデルの場合、各種部品が標準化されており互換性(interchangeability)があるのだという。

ペレは一体どのように交渉したものか「ちょっとこの時計貸しておくれやす」とウォルサムの中級グレードの時計を借り出すことに成功します。そしてそのウォッチを持ち帰り、

「いまウォルサムからこの時計かっぱらって来たんだよキミィ。何だか随分精度いいみたいなんだけど、ちょっとこの時計バラして検証してみてくれんかねキミィ?」

とスイスから同行してきた随行員の時計技師にそのウォルサムの分解を依頼しました。

黙ってウォルサムの分解作業に没頭する時計技師の横で待つことしばし、やがてペレ氏はしびれを切らせたように尋ねます。

「で、どうなんだねこの時計はキミィ?」

「うーんダメだこりゃ。全然かなわないよ。凄いよこれ。お見それしました、だよ」

「そんなに凄いのかねキミィ」

「もう信じらんないね。オレたちの国の時計を5万個かきあつめたってこんだけ出来のいい時計は無いね。オレ、こんなショック受けたの初めてだよ」

「本当かねキミィ・・」


問題点は非常に明快で、最新鋭の機械設備で造られたアメリカの時計は同等の価格のスイス時計よりも高品質だったのです。そしてそれが支持されてアメリカ人は スイス時計を買わなくなった、これが輸出激減の理由だったのです。更に言えばアメリカ人はウォルサムのウォッチがスイス・ウォッチより多少高くても高品 質・高信頼性を理由にアメリカ製を好んだそうであります。

「えらいこっちゃ、とんでもないこっちゃ、もうワシらはおしまいだ」

ペレ様ご一行は想像以上の事態に驚愕して本国に「大変な事になった」と連絡を入れたのでありました。

●They decided to send Jaques David to United States

余談ですがペレ様ご一行はフィラデルフィアで一番悪いものを見たと思います。ハロルド著 "American Watchmaking: A Technical History of the American Watch Insdustry 1850-1930" によればこの時、アメリカンウォッチカンパニーはフィラデルフィアにナシュア(Nashua)の製造設備を一部持っていったとのこと。

ナシュアはアメリカン・ウォッチ・カンパニーの前身、ボストン・ウォッチの頓挫を機にスピンアウトした人々によって造られた会社ですがメカニックとしてチャールズ・モズリー(Charles Moseley)、チャールズ・バンダー・ウォード(Charles Vander Woerd)などの天才軍団を擁したアメリカいち先進的な会社でありました。特に部品の互換性(interchangeability/標準化)においては他の追随を許さなかったようです。オリジナルな製造機械を造ったり、バイメタルバランス(テンワ)の非常に先進的な製造方法を開発したり、というきわめて高度な技術者集団でした。

ところが南北戦争初期の不況、アメリカにおける高級時計市場の未成熟といった問題が重なり、ナシュアはほんの二年足らずで資金繰りに困ってダメになってしまいます。ですがその技術が余りに素晴らしいのでアメリカン・ウォッチ・カンパニーはそのままこの会社を吸収し、ナシュアの一団は悪びれずにAWCの一部門(デパートメント)として大手を振って堂々と乗り込んで来たのでありました。

ハロルドおやじによれば、その後のウォルサムが品質においてハワードに対抗し得たのはこのナシュアのおかげだ、とのことであります。ファーブル・ペレらはそのアメリカで一番進んだナシュアの製造設備を見てしまったので余計ショックが大きかったのではないかと想像します。

驚いたのはスイス側、ジュラ山地カントン連合産業委員会(Intercantonal Committee of Jura Industries)の人々であります。

「ペレは大変だ大変だと言って来ているが何がどう大変なのかあのおっさんの言葉ではいまひとつ要領を得ない。一体アメリカでは何が起こっているのか。これは機械の判る人間を派遣するしかあるまい」

という事で急遽、機械技術の判る専門家をフィラデルフィア博覧会に派遣しようという事になりました。

「となると、あいつしかいないだろう」

と委員会に白羽の矢を立てられたのがロンジンのジャック・ダビド(Jacques David)だったのであります。

この1876年当時、ウォッチ製造に関わるマシナリー(機械)の研究がスイスで一番進んでいるのはエルネスト・フランション(Ernest Francillon)率いるロンジンであるという事は業界人の意見の一致するところでありました。そのロンジンの若き技師長として様々な製造機械を開発してきたジャック・ダビドこそアメリカン・ウォッチメイキングを検証するに最適の人物であると考えられたもののようです。

更に言えば上記の「ジュラ山地カントン連合産業委員会」自体がロンジンのエルネスト・フランシヨンの主導によって「これからは今までのように各カントンが対抗意識むき出しで排他的な商売をしていたんじゃ立ち行かないぞ」と造られた委員会だったのでむしろこの人選にはフランションの意思が反映されていると見る方が正しいかも知れません。

ただ私は「よくロンジンはこの時期にジャック・ダビドをアメリカに出したな」と思います。というのもこの 1876年時点でのロンジンという会社の経営は非常な苦境の下にあり、ロンジンの頭脳である技術主任を三ヶ月も外遊に出す余裕は本来無いはずでした。特にこの年前半の同社は工場創設以来最悪の危機的状況に陥っており、いつ倒産してもおかしくありませんでした。資本は完全に食いつぶし、銀行からの借金は限度一杯でもう誰もお金を貸してくれないような会社になっておりました。満身創痍であります。

もっともロンジンという会社は1866年、スゼ河畔のロンジンの地に工場を設立して以来1876年までの10年間というもの一度も黒字になった事は無く、常に出口の見えない迷路をランプ片手に心細く歩くような経営状態の会社でした。よくもまあ銀行は金を貸し続けたものだと逆に感心します(ロンジンのメインバンクがアガシの親戚筋だったとの事なので多分に恩情的融資とも言うべき側面があったかも知れません)。

(つづく)
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ダビド・レポート -Preface-

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●David
Report =スイス・ウォッチの運命を変えたレポート=

1876年のアメリカ建国100周年記念フィラデルフィア博覧会においてアメリカン・ウォッチ・カンパニー(American Watch Co. of Waltham)が大々的に行った「マシン・メイド・ウォッチ」の展示・デモンストレーションが視察に来ていたスイス時計業界の使節団に非常なショックを与えたという話は有名であります。

この博覧会に触れてスイス人は自らの後進性を認識するとともに自らの産業が存亡の危機にさらされている事に気づき、これを契機としてスイス時計業界はウォッチ製造に関わる全てのカントンを挙げて時計産業の機械化に取り組む事となったと言われております。

この話はカットモア の "Watches"をはじめ多くの時計本に出てきますが「ではスイス時計業界は具体的に一体何を行ったのか?」という点についてはどの本も総論的な解説のみで終わっている場合が多く、詳細に解説したものは余り見かけなかったように思います。

ところが最近、このあたりについて非常に詳しく書いた本が出版されましたのでご紹介したいと思います。書名情報等は以下の通りです。

書 名:American and Swiss Watchmaking in 1876
原著者:Jacques David(1877年仏語原本)
英訳者:Richard Watkins(2003年英訳出)
出版社:なし。ワトキンスによる私家版(全300部)

この本はこれまで世に出た時計本のうちでも最も興味深いものの一冊ではないかと個人的には感じました。この本(正確にはレポートと言うべきですが)の著者は ジャック・ダビド(Jacques David)、1876年当時のロンジンの技師長であります。1845年生まれ、1912年没。ロンジンの創始者エルネスト・フランシヨンの甥でアガシ一族、フランション一族同様ローザンヌ出身のユグノー教徒の末裔であります。このジャック・ダビドという人は途方もない人物であり、もし19世紀後半のスイス時計業界がこのジャック・ダビドという人物を持たなかったならばスイス時計業界はあるいは衰亡の運命を辿っていた可能性すらある、と私は思います。

このあたりの事情について詳説しようとするとさらにはエルネスト・フランシヨンという人物そしてロンジンという会社の存在、と言ったバックグラウンドについても言及しなければなりません。これに関してはこのダビド・レポートとは別のトピックにてロンジンの歴史と照らし合わせながら別途ご紹介したいと思います。


●救世主ロンジン

さて「1876年のフィラデルフィア・ショックに対してスイス人は劣勢を挽回すべく必死の努力を為した」という意味の表現は他の時計本でも目にするところでありますが具体的には誰がどこでどのような努力を為したのでしょうか?今まではこのあたりは私にとっては曖昧模糊としておりまし た。が、今回の「ダビド・レポート」とアンドレ・フランシヨン著「ロンジンの歴史(History of Longines/リチャード・ワトキンス英訳出)」の内容を照合する事によって私なりに結論を得たように思います。それはロンジンであります。

アメリカで始まったウォッチメイキング・バイ・マシナリー、近代的機械による高品質時計の大量製造、これはまさにスイス時計産業にとっての黒船でありました。スイス人が旧態依然とした方法でのんびりとウォッチ製作をしているうちに新大陸では想像を絶するウォッチ製造方法が始まっており、それは突如、という感じでアメリカがスイスの強力な競合相手として出現したのであります。スイス時計産業存亡の危機であります。

この緊急事態に際してスイスにおいて最も鋭敏にこれに反応し、正確に彼我の現状分析を為し、スイス時計人を鼓舞し、主導し、進んで機械製造方式を導入し、小規模工場の統合を唱えてスイス時計業界の産業形態まで変容させその後100年のスイス時計繁栄の基礎を築いた会社、それはロンジンです。

誤解を恐れずに敢えて申し上げるならば「スイス時計産業を救った会社」はロンジンであり「スイス時計産業を救った人々」はオーギュスト・アガシ、エルネスト・フランシヨン、ジャック・ダビドそして彼らを補佐した技術者たちである、という結論になるかと思います。

随分また乱暴な結論を導き出したものだな、とお叱りを受けるかも知れません。ですが自分なりに調べた結果、私はそのような結論に達しました。以下、何故そのような結論になるのかというその根拠について上記のダビド・レポートの内容をご紹介しながら私なりに検証していきたいと思います。以下、気長にお付き合いいたければ幸いです。

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