2009年5月24日日曜日

デュボア・デプラ (2)

________________________________________________________________________________________________

●Watchmaking in Vallee de Joux

ここで少し、マーセル・デプラが生まれ育ったジュウ渓谷-Valee de Joux-における時計製作の歴史について復習をしたいと思います。マーセル・デプラのスイス時計史におけるポジションを確認する意味でもあります。
※画像はどこかのアトリエの窓から眺めたジュウ渓谷の眺め。昔の時計師たちは窓外にこんな風景を見ながら仕事をしていたものらしい。パチンコ屋や歓楽街らしきものの片鱗すら見えない心洗われる風景です。

ジュウ渓谷において明確に組織だったウォッチメイキングが始まったのはマーセル・デプラの生まれる大体130年ほど前、およそ1740年代を過ぎてからのことになるようであります。

"Technique and History of the Swiss Watch"(by Jaques and Chapuis)という本によるとLa Chenit出身のサミュエル・オリバー・メイラン(Samuel-Oliver Meylan)、Derriere-la-Cote出身のピエール・アンリ・ゴレイ(Pierre-Henri Golay)、ロリエン(L'Orient-レマニア創業の地)出身のアブラム・サミュエル・メイラン(Abraham-Samuel Meylan)といったジュウ渓谷出身の若い職人がそれぞれ別の都市で時計製作を学んだ後にジュウ渓谷に戻って居を定めて時計製作を始めた、とあります。

それまでにもこの地で小規模な時計製作をする者はいたようですが都会に出て親方の資格(Mastership)を取って帰ってきて弟子を使って仕事を始め た、という意味ではこの三人をもってジュウ渓谷ウォッチメイキングの祖とするようです。こうした先人たちの努力の甲斐もあってこの地における時計製作は大 いに栄えることとなり、時計士の地位は大いに向上いたしました。

この地で時計製作が栄えた理由の一つに「親方制度の廃止」があります。大体ジュネーブなど時計先進国(邦)では色々とマスターシップの制約がうるさかったのですがジュウ渓谷では「そんなもんどうだってええわ」と撤廃してしまったらしい。

前出のS.O. メイランは若い頃一度マスターシップ取得に失敗していてそのせいで弟子を取ろうとしたら他所から因縁つけられたりして余分な苦労をしたようです。そんな事 からメイランあたりは「あんな堅苦しい資格いらんわ」とマスターシップに重きをおいていなかったのかも知れません。

その結果「1800年までには時計製作はささやかな利益を運んでくる仕事として、どんなちんまい家庭においても行われるようになった」(前掲書)のであります。メイラン以後50年でジュラ渓谷は完全に時計産業地帯に変容してしまったのでありました。
※画像は朝霜の降りるジュウ渓谷の風景。風光明媚な場所でキャバクラひとつ見当たりません。

ジュウ渓谷の時計職人達は普通の時計を造っている限りにおいてはその質は周りの邦と大差ないクォリティだったそうですが、こと複雑時計のメカニズムになると彼 らの創意工夫、製造技術は他の土地に比して隔絶して優秀だったそうです。理由は判りません。そもそもが手先の器用な人たちだったんでしょうか?

ジュウ渓谷の時計製作が「半完成のムーブの迅速大量生産をする」という方法で急速に分業の度合いを強めたのはおおよそ1776 年頃からです。余りに沢山のムーブを造らなければならなかった為、ジュウ渓谷のおじさん達はある頃から「完成した時計」を造るのを諦めてしまって「ムーブ メント屋」 に徹する事になったらしい。そのムーブメントはジュネーブその他の都市に送られ、その地で脱進機が取り付けられ、検査され、仕上げられ、ケースに入れられたのでした。

※写真はLe Brassus。1890年の台風被害に遭う前の写真。

これが100年後のこの地にバルジューやレマニアやマーセル・デプラ(デュボア・デプラ)というムーブメント専業会社が出てく る素地となったと思います。

興味深い事にこの業態はマーセル・デプラが1901 年に自分の会社を設立する頃においてさえ、原則同様であったようです。マーセル・デプラはある意味この1700年代終盤から続いた業態に終止符を打った男なのですがその話はまた後で。

複雑時計の分野におけるジュウ渓谷のアルチザンたちの技量は他に比肩するものがなく、それは精緻さと美の表出だった、と前掲書に書いてあります。少し後に様々な複雑時計に対する需要が高まった時、ジュネーブの時計製造者たちは、

「何だ、オレたちはジュウ渓谷の奴らがいないと何も造れないじゃないか」

と気づいて愕然としたのだそうであります。

マー セル・デプラが生まれたのはこのようにしてジュウ渓谷が100年に亘って複雑時計の技術を濃密に蓄積爛熟させた後、そしてこの渓谷にも鉄道や電灯や蒸気機 関などの20世紀的な新技術がもたらされ、それに合わせて時計業界も変容を遂げようとしていた時期なのでありました。

※ 写真はDubois DeprazのあるLe Lieuの村。カラー写真だが建物が古いので1950年代くらいの写真ではないかと思われる。写真右の教会堂は現存。ジュウ渓谷の村々の写真を見ると、村 の中心地に教会堂があって、それに寄り添うように家々が集まっている形態のものが多いようである。



●A Brief History of Chronographes











※左の写真は初期クロノグラフというかインデペンデント・センター・セコンドのウォッチ群。左上のものがポウザイのデッド・セコンドを持つもの。




次にマーセル・デプラがその生涯を捧げたクロノグラフの歴史について手短に復習をしたいと思います。マーセルが生まれ育った時代の雰囲気を掴むためでもあります。

現代の我々が使用している機械式クロノグラフの原形を造った人はアンリ・フェレオル・ピゲ(Henri-Fereol Piguet)というスイス人でその発表は1862年のロンドン博覧会においての事でした。その特徴は、

・香箱は一つ
・スタート、ストップ、再スタートが自由に出来る
・計測後、即座にゼロ位置へのリターンが可能
・その操作中、時計本体の動きを止めることはない

という至って当たり前のものですがこんな事も長い間実現不可能だったらしいのです。特に計測後のリターン・トゥ・ゼロはピゲさんが初めて実現した機能だそうです。

マーセル・デプラが生まれたのが1874年ですからピゲ式クロノグラフの発明はその僅か12年前という事になります。つまりマーセル・デプラの青年期において クロノグラフはまだ発展途上の技術であったという事が判ります。ちなみにこのピゲ式クロノグラフには写真を見る限りコラムホイールの存在が認められるよう です。

このピゲ式クロノグラフの発表が何故イギリスだったかと言うと、発明者アンリ・フェレオル・ピゲ(ジュウ渓谷出身)は当時ニコル(Nicole & Capt.)というロンドンの会社で働いておったからでした。そしてこの会社の大将のアドルフ・ニコル(Adolphe Nicole)もジュウ渓谷出身のスイス人。ピゲ氏はこのアドルフ・ニコルに従ってロンドンで働いていたのでありました。

こういうスイス 人だがイギリスに渡ってしまった人は結構いますね。有名なところではジョサイア・エメリー(Josiah Emery)などもそういう人々の一人です。英国一流、スイス二流の時代の名残でしょうか。ニコルはロンドンに会社を構えていたが同時にジュウ渓谷に自分 の工場も持っておりました。恐らくはスイスの自分の工場で製作したエボーシュを大量に輸入してロンドンにおいて仕上げ及び販売をしていたのだろうと思われ ます。

※写真は初期のクロノグラフ群。恐らくはジュウ渓谷のピゲ一族らの手によって開発されたものであろうと思われます。下段のウォッチは何とラトラパンテであります。

結局のところクロノグラフの発展発明の殆どはジュウ渓谷で行われたというのが一番真実に近いでしょう。前出のChapuisの本によれば分積算計などの発明 はやはりジュウ渓谷において19世紀末にルイ・エリゼ・ピゲ(Louis-Elisee Piguet/クロノグラフ発明のピゲ氏とは別人)らによって行われた、とあります。ラトラパンテもこの頃の発明。


余談ながらこのルイ・エリゼ・ピゲは震撼すべき天才だったようです。世界で初めて閏年も含めたパーペチュアル・カレンダー・ウォッチのメカニズムを発明確立したのはこのルイ・エリゼ・ピゲ。それは1853年のこと、信じがたいことにピゲ君弱冠17歳の時だったそうです。

※写真はおっちゃんになってからのルイ・エリゼ・ピゲ。

このジュウ渓谷で生まれ育ったパーペチュアル・カレンダーの技術をクロノグラフやリピーターの技術同様、紆余曲折を経ながらも現代に伝えているのがジュウ渓谷のデュボア・デプラ、という事になる訳ですね(その詳細はずっと後でご説明する予定です)。







さらに余談になりますが、世界で最初にクロノグラフらしきものを造った人はどうもジャン・モイゼ・ポウザイ(Jean-Moyse Pauzait)という人でそれは1776年の出来事だったそうです。クロノグラフ機構で任意の時間が計測出来るのみならず「クロノグラフをストップして も時計本体は止まらずに動いている!凄い、奇跡だ!」という事で結構ウケたもののようです。

ただこのタイプのクロノグラフの仕組みを見て みるとそれは随分原始的なもので、中にはバーレル(香箱)が二つあってそれぞれで時計本体とクロノグラフを動かしているものがあったりします。そりゃクロ ノグラフを止めても時計本体が動き続ける筈です。あとは香箱が一つでも香箱から二系統の輪列を作ってひとつは普通の時計表示、ひとつはクロノグラフ用にしていたりします。







クロノグラフ用の輪列もおかしなウデをおかしな歯車でピコピコ往復させてその動きをクロノグラフ秒針の回転に変換する、というものだったそうです。
このタイプのクロノグラフは1860年代くらいまでは生き延びたそうですが、結局はピゲ式クロノグラフの登場によって駆逐されてしまいました。

クロノグラフは一時期は『クロノスコープ』と呼ばれていたらしい。だが大衆の間でクロノグラフという名称が定着してしまった。でもスイスにおいてすらクロノグラフとクロノメーターとの誤用があったりして業界人はクロノグラフという呼称が気に入らなかったようですが衆寡敵せず何となくこの呼称になったとのこと です。



という訳でマーセル・デプラの時代、クロノグラフは業界人の熱い視線を浴びるホットな分野であったという事を理解したところで今回は終わりにしたいと思います。

(つづく)
________________________________________________________________________________________________
■目次へ

0 件のコメント:

コメントを投稿