2009年5月22日金曜日

ダビド・レポート (3)

________________________________________________________________________________________________

●Jaques went to United States

また同じく1876年、もうひとつフランションを腐らせる出来事がありました。10年間苦楽をともにしたジョルジュ・アガシ(Georges Agassiz/オーギュスト・アガシの息子)がロンジンを去ったのです。ジョルジュはもともと医学を志していたのですが親父のオーギュストに「お前はいとこのエルネストを助けなさい」と言われて無理矢理ウォッチメイキング修行をさせられた上で強制的にロンジンに入れられたのです。

親の意向で将来の夢をあきらめた、という割にはジョルジュ・アガシは誠実かつ精力的に働き、仕事面でも精神面でもよくフランションを扶けたようです。例えばある時期、オーギュスト・アガシがフランションに対して険悪な感情を持つに至った時期がありました。

「我が甥のエルネストは一体何を考えているのか。ロンジンはただ資金を食いつぶすだけで一向に成果というものが現れないではないか」

と怒気を隠さなかったらしい。オーギュスト・アガシはリタイアしたとは言っても多額の資本をロンジンに提供していたのでロンジンの経営については強力な発言権がありました。その時に二人の間に立って一生懸命取りなしたのが息子ジョルジュとジャック・ダビドだったそうです。

「お父さん、そんなに短気を起こさないでください。エルネストは一生懸命やってます。僕もジャックも必死でやってます。いつまでもこんな状態じゃありません。成果の出る日はそんなに遠くない筈です。さ、お身体に障りますから余り難しい事は考えないでお父さんは休んでいてください。絶対大丈夫です」
(※晩年のオーギュスト・アガシは長く病床にあった)

なんて事を話したのでしょうか。そこまで一心同体とも思えたジョルジュ・アガシとフランションの間柄でしたがこの1876年にジョルジュは、

「僕にはエルネストが一体何を考えているのか判らない。多分もうここは僕の居るべき場所じゃないんだろう」

とロンジンを去ってしまいました。経営方針を巡って二人の間には深刻な対立があったとの事であります。

精神的支柱の一人、ジョルジュを失ったエルネスト・フランシヨンのショックは相当なものだっただろうと想像します。アガシはロンジンを去ると"Agassiz Fils"という屋号のもと、ロンジンが訣別を宣言した方法、つまり旧来のエタブリスールの手法で造られた高級ウォッチを製作する仕事を始めたのでありました(後に両者は和解します)。

余談のつもりが飛んでもなく長くなってしまいました。私が申し上げたかった事は「ダビド・レポート」を書いたロンジンの技師長、ジャック・ダビドがフィラデルフィア博覧会を訪れた1876年がロンジンにとって如何に惨憺たる年であったかという事です。ですからジャック・ダビドは決して物見遊山、高見の見物の気持ちでアメリカを訪れた訳ではないのです。スイス時計界が自分に一体何を期待しているのか。課せられた使命の重さをひしひしと感じながらダビドはアメリカの地を踏んだことでしょう。

ここでもうひとつ余談です。この1876年、エルネスト・フランシヨンは沢山の奇妙な行動をとっています。ロンジンを工場ごと売却や移転する案をあれこれ模索していたかと思ったら今度はいきなり「もう破産だ」と伯父あてに手紙を書きます。かと思うと今度はアメリカの代理店のロベールあてに突然「ロンジン製の凄いウォッチをフィラデルフィア博覧会に出展した」という内容の意気軒昂たる?手紙を書いてみたり(フィラデルフィアに向かったペレ達にそのウォッチを持たせたようです)と、その行動を辿るとおよそやっている事が支離滅裂で理屈が通ってないような印象を受けます。これはつまり、このように迷走せざるを得ないほどフランションは経営で追いつめられていたのだなと思います。フランションは本当にもがき苦しんでいたのでしょうね。

ジャック・ダビドを三ヶ月間もアメリカに出す、という決断もそのフランションのもがき苦しんだ行動の中のひとつだと考えられます。この厳しい時期に技師長が三ヶ月もロンジンの工場を留守をするというのは由々しい事態でとても理屈の通る話ではないのですが、それでもエルネスト・フランシヨンの夢は何だったのか、彼のやりたい事は一体何だったのかという事を考えた場合、このジャック・ダビドがそれを実現するためのキーパーソンだという事は明らかなのであります。

アメリカの技術的先行に追いつけるかどうか、アメリカと戦えるかどうか、それを判断できるのはジャック・ダビドしかいない訳です。そのジャックが「自分にはそれが出来ません」と言えばエルネストにはこんなに苦しんでまで仕事を続ける理由がない。彼にはロンジンという会社を畳む以外の選択は残されていないのです。逆にジャックが「あんな事なら大丈夫、自分たちでも負けないくらいの事は出来る」と言うならばロンジンという会社は続ける価値があるでしょう。

エルネスト・フランシヨンは上のような事を考え、一種の賭けにも似た心情をもってジャック・ダビドをアメリカに送り出したのではないでしょうか。そう思う根拠はフランションが後年、ジラール・ペルゴーの知人に書いた手紙に次のような文面が残っているからです。

「ダビドはアメリカで見たものに対する驚きに充ち満ちたままスイスに帰ってきた。だが私が恐れていたのと相違して、いかなる意味においても彼は落胆していなかった。ダビドは『新しい工場を造るために我々はみんなが通るありきたりの道を真っ先に離れたんだ。我々はいかなる時間も金も無駄にして来た訳じゃない』と確信していたんだ」

この文面からはフランションはジャック・ダビドが意気消沈して帰ってきて「もうダメだエルネスト。もう我々にはチャンスなど無いんだ」と言う結論を出すかも知れないと心配していたらしい事が読みとれます。それだけにダビドが意欲と確信に燃えてアメリカから帰ってきたのを見たときは嬉しかったでしょうね。

しかしロンジンが成功物語を語る事が出来るようになったのはまだ後の話です。この時点でロンジンが来月あたり潰れるかも知れないという事実に変わりはないのです。

それにしても不思議な構図であります。1876年時点のジャック・ダビドは自国の遅れた時計産業の人々の期待と不安を一身に担ってアメリカに調査に出かけようとしているのでありますがその実、彼は今にも潰れそうな会社の年若き技師長にしか過ぎないのであります。ちゃんと旅費は貰っていたのでしょうか?滞在費は大丈夫だったのでしょうか?

そのあたりは良く判りませんがとにもかくにもジャック・ダビド31歳の夏、彼は陸路フランスの港町ル・アーブル(Le Haver)に向かい、1876年8月13日、同港を出発、そして8月23日にはニューヨークに到着したのでありました(意外に短時日で渡米出来るものなんですね)。

ニューヨークで両手を広げてジャック・ダビドを抱きかかえるようにして出迎えたのはユージン・ロベール(Eugene Robert)、アメリカのロンジン代理店の長でした。この時ロベールは深刻な事態に見舞われていました。アメリカにおけるロンジン販売が急激かつ極度の不振に陥り大量の在庫を抱えていたのです。

「見てくれよジャック。この倉庫には少なくとも4,000個ものロンジンの在庫がある。ここアメリカではこのロンジンのウォッチを欲しい奴は一人もいないんだ。一人もだ。何かが変わってしまったんだ。判るかジャック?」

ジャックはロベールの苦境を見て事態の深刻さに息を呑む思いだったでしょう。

その後ジャックは三ヶ月間かけてフィラデルフィア博覧会およびアメリカのウォッチ製造工場を精力的に視察調査し同年11月に帰国いたします。その後彼はアメリカにおける調査レポートの作成に没頭し翌1877年1月22日に「ジュラ山地カントン連合産業委員会(Intercantonal Committee of Jura Industries)」にレポートを提出する運びとなりました。これがスイス時計産業を変えた「ダビド・レポート」です。

以上、前置きが大変長くなりましたがここでようやくダビド・レポートの内容紹介に入る事が出来ます。

(つづく)
________________________________________________________________________________________________

0 件のコメント:

コメントを投稿