2009年8月12日水曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(1)

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●オルレアン公、ジョン・アーノルドを訪ねる


ブレゲの生きた時代は時計史上の巨人とも言うべき時計師が数多く輩出した時代でしたがそのなかでもブレゲが最も敬慕し、かつ影響を受けたのは或いはジョン・アーノルド(1735 or 1736-1799)ではなかったかと私は考えております。

この二人が友人となるきっかけを造ったのはオルレアン公(Duc d'Orleans/Louis Philippe II /1747-1793)という人であります。後にフランス革命の動乱の中、ギロチンの刃の露と消える運命を持つこの裕福な貴族はかなりの時計好きだったらしく、1780年にブレゲ最初期のペルペチュエルを入手したと考えられています。

エマニュエル・ブレゲによればマリー・アントワネットがはじめてブレゲのペルペチュエルを入手したのは1782年10月近辺との事ですからそれよりも早く入手していたという事になります。オルレアン公はマリー・アントワネットに敵意を持っていたといいますから「王妃より早くペルペチュエルを手に入れたい」と思ったりしたのでしょうか。

※画像はオルレアン公。当時フランス随一の富裕な貴族だったとのこと。

オルレアン公所有のペルペチュエルは以下の機能を備えたものでした。



・プラチナウェイトによる振り子型自動巻(Perpetuelle)
・ミニッツリピーター
・レバー式脱進機(*1)
・パラシュートサス(*1)
・温度補正つきバランス(テンワ)
・パワーリザーブ表示
・温度計



ブレゲがペルペチュエルを初めて世に問うた頃の最高の野心作のひとつ、当時最高級の複雑時計と言えるでしょう。オルレアン公はこの精密なブレゲ・ペルペチュエルをいたく気に入って外出の折りに頻々これを携行していたようです。


※写真は元オルレアン公所有のブレゲNo.54。このウォッチは長らく行方不明でしたが1949年にひょっこりとパリのブレゲ工房のジョージ・ブラウンの元に修理依頼で入って来たのだそうです(*1)。



オルレアン公はロンドンと縁の深い人物で度々ロンドンを訪れておりましたがその何度目かの外遊の折、彼はロンドンの著名な時計師、ジョン・アーノルド (John Arnold / 1736-1799)を訪ねます。これが何年頃の事か正確な記録が残っておりませんが恐らくは1785〜1786年あたりの事ではなかろうかと私は考えて おります。

ジョン・アーノルドはこの頃既にヨーロッパ最高のクロノメーター製作者の一人として名声を確立しており非常な尊敬を集めておりました。そんな事もあって時計マニア?でもあるオルレアン公は高名なジョン・アーノルドと時計談義をしたかったもののようです。相手が有名なフランスの貴族とあってはジョン・アーノルドもうやうやしくこれをお迎えせざるを得なかったのではないでしょうか。

この時の二人の会話の内容は伝わっておりませんがクロノメーターの話題を避ける事は無かったと思われます。何しろ目の前にいるのはイギリス海軍のキャプテン・クックやキャプテン・フィップスらが冒険的な大航海に供用したクロノメーターを製作した本人なのです。フランス海軍を率いた経験を持つというオルレアン公がクロノメーターに深い興味を持ってジョン・アーノルドにあれこれ尋ねたのではないかと想像する事は許されるでしょう。

例えば、"The Chronometer: Its origin, and present perfection"(by Thomas Porthouse, 1848年刊行)という本を読むと「(かつて)オルレアン公はロンジチュード問題解決に100,000リーブルの賞金を出した」という記述を見つける事が 出来ます(p.9)。どの代のオルレアン公がこの懸賞を提示したのかは定かではありませんが(『オルレアン公』は襲名)その家系の当主であればクロノメーターに興味と関心を寄せるのは当然の事に思えます。オルレアン公はフランスのクロノメーター作者であるルロアやフェルディナン・ベルトゥについての意見を求めてジョン・アーノルドを困らせたりしたかも知れません。


さて、和やかに歓談が進むうち、やがてオルレアン公は懐中からひとつの時計を取りだしてアーノルドに見せました。

「これはパリのブレゲという時計師が私のために造ってくれた時計であるが貴君はどう思われるか。とくとご覧いただきたい」

このブレゲが恐らく前出のNo.54だと思われます。

「ブレゲ、その名前は私も聞き及んでおります。では拝見いたしましょう」

ジョン・アーノルドはブレゲのペルペチュエルをオルレアン公の手からうやうやしく受け取りこれを観察する事しばし、やがてその顔色はみるみると変わって参ります。

「これは一体…?」

ジョン・アーノルドはこのブレゲの素晴らしさに非常に衝撃を覚えると同時に感嘆、賛美の念が湧くのを禁じ得なかったと伝えられております。アーノルドはオルレアン公にこの時計に対する賞賛の辞を伝えると同時に製作者ブレゲの人物について熱心に尋ねたもののようです。恐らくブレゲが誰に師事したかなど経歴についても聞いたりしたのではないでしょうか。



「そうかそうか、ワシのブレゲにはジョン・アーノルドもびっくりか」

ウワッハッハ、とオルレアン公が上機嫌で帰るのをうやうやしく見送るジョン・アーノルドでありましたが、バタン、とドアが閉まった次の瞬間ジョン・アーノルドはくるりと振り返ると息子の名を呼びました。

「ジョン!息子のジョン・ロジャー!」
「はいパパ」
「パリにブレゲという驚いた時計師がおるから今から会いに行く事にした。支度しなさい」
「今からパリに?工房はどうするんですかパパ?」
「工房は一時休業にしよう。さあ急ぎなさい」

という訳で、ジョン・アーノルドは息子ジョン・ロジャーを連れて当時のドーバー海峡を渡る旅の苦労も省みず、いてもたってもいられないという風情でパリに急行したとのこと。この殆ど性急とも言える行動、大時計師らしからぬフットワークの軽さであります。ジョン・アーノルドはブレゲの一体何がそんなに気に入ったのでしょうか?

その事を考えるにあたっては、まずジョン・アーノルドという時計師についての多少の理解が必要であるように思えます。ここでブレゲと出会うまでのジョン・アーノルドがどのような人生を過ごして来たか、ジョン・アーノルドとはどんな男だったのかという事について手短に振り返ってみる事にしましょう。

※上の肖像画は左からジョン・アーノルド、息子のジョン・ロジャー・アーノルド、妻のマーガレット。

(つづく)
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(*1)に関する付記



このNo.54の仕様はいくつかのブレゲ伝記本に載っているものですが実はこのウォッチ、少しばかりおかしいのです。このウォッチがはじめてオルレアン公の手に渡ったのが1780年であったとしてもその後、この個体には大幅な改変が加えられている形跡があります。

まず、1780年の時点でブレゲが既にレバー式脱進機を採用していたとは考えにくいという点。他に現存するブレゲのウォッチでレバー脱進機が採用されている一番古いものは1786年製作のNo.3-4/86(1786年4月製作のNo.3という意味)です。上記No.54の1780年という製作年が正しいとするとその後6年間レバー脱進機を作っていないのが不思議。

そもそも1780年と言ったらレバー脱進機の発明者であるトーマス・マッジ がジョサイア・エメリーに「お前、オレの発明を真似しただろう?」と訴え出てすった
もんだしていた頃であり、まだレバー脱進機という方式そのものがよちよち歩き、黎明の頃であります。この時点でブレゲがレバー脱進機を作っていた、というのは時代考証的に少々無理があるのではないかと思います。ブレゲには伝聞、簡単な図解以外にレバー脱進機の情報を得る方法は無かったのではないかと思います。

パラシュートについても微妙に疑問が残ります。というのもジョージ・ダニエルズの研究によればパラシュート機構を備えたブレゲのウォッチが現れ始めたのは1790年頃からだという事だからです。となると No.54のパラシュートはそれより10年ほど出現が早いという事になります。

ただ、ブレゲ自身は晩年に「私は1780年にオルレアン公 とマリー・アントワネットにペルペチュエルを作った。どちらもパレシュット(pare-chute)をつけていた」とはっきり書き残しています。だからパ レシュット(パラシュート)の開
発は後年の我々が考えているより10年程早かった、ただ現存している個体が確認出来ないだけだ、という可能性があります。 その一方でこのジョッティングの内容が既に老境にあったブレゲの記憶違いである可能性も否定出来ません。このあたりの判断はとても難しいです。

そしてこのウォッチの最高最大の矛盾点はプラチナウェイトに刻印されたインスクリプションにあります。"Faite Par Breguet Pour Mr. le Duc Dorleans en 1780"(1780年にオルレアン公のためにブレゲによって製作された)とありますが1780年の時点ではオルレアン公の名は実は"Louis- Philippe d'Orleans"といってまだオルレアン公国を相続する前なので"Duc"(英Duke)の称号を得ておりません。"Duc"の称号を得るのは1785年の事です。だからこのインスクリプションは1785年以降に新たに彫られたものだと考えられる訳です(あるいはウェイトごと交換したかも知れません)。

このウォッチは全体的な特徴が初期ペルペチュエルというよりはむしろ1787年以降にシリーズプロダクションとして作られた31 個の後期ペルペチュエルに似ています。ですが1787年以降のブレゲ新帳簿にこのウォッチは記載されていないとのこと。だからこのウォッチのオリジナルが 1780年というのは事実らしく思えますが1780年代中後半に脱進機まわりを交換するような大改造が施されたというのも恐らく事実なのではないかと想像します。

「ブレゲ君、メンテナンスついでにこのウォッチに君の新しい脱進機やら何やらを取り付けてくれんかね。ああ、あとあれも頼むよ、時計落としても壊れない仕掛け。何つったっけ、パレロワイヤル?」

「パレシュットでございます」

「そうそう、それ。パレロワイヤルはウチの庭だった。とにかく頼むよブレゲ君。それからボクの名前も彫っておいて」

1780年代後半にブレゲはオルレアン公からそんな依頼を受けたのではないでしょうか。

そんな訳でジョン・アーノルドがオルレアン公に見せられたブレゲはもう少しシンプルなものだったかも知れません。オルレアン公は複数のペルペチュエルをブレゲに注文しているようなので別の仕様のペルペチュエルと混同して話が後世に伝えられたのかも知れませんね。


※ ちなみにパラシュートは現在"Parachute"と通常は表記しますがブレゲ本人はどうもジョッティングには"Pare-Chute"と書き殴っている模様です。"Pare-"は「防ぐ、避ける」という意味の接頭語。"Chute"は「落下」という意味。共にフランス語。まあどうでもいい話なので以後は 「パラシュート」という用語に統一しようと思います。







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