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2009年6月1日月曜日

ダラー・ウォッチ列伝 (3)

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●ロスコフ・ウォッチの成功

ロスコフ・ウォッチは着想後の10年間は鳴かず飛ばず、具体的な形になる事がありませんでした。その原因としては基礎実験に多くの年月を費やしたという事もありますし、製作面では従来のスイス時計と余りにも考え方の違うものであったため、職人さんたちがそのコンセプトを理解できないどころか「そんなショボい時計なんか造れるかいバーロー!」と怒ったりして作業を拒否したりした、というような事もありました。ですが基本的に工房というものを持たないエタブリスールであったロスコフはそんな頑固な職人たちの間を回って「お願いします、こういう風に造ってください、お願いします」と懇願して回るより他は無かったようであります。

そして苦節10年、「はじめての」ロスコフ・ウォッチが完成したのは結局1867年の事でありました。そしてロスコフは大胆にもこのウォッチを1868年のパリ万博に出展いたします。恐らく万博で展示されている中で一番ショボいウォッチだった事でしょう。が、審査員の中にロスコフ・ウォッチのコンセプトと意義を理解する者がいたらしくこの時計は銅賞を受賞いたします。ちなみに誇り高きイギリス人は「何じゃこのゴミみたいな時計は」と嘲笑したという話が伝わっております。

ロスコフ・ウォッチはアメリカ式の「マシンメイド・ウォッチ」ではありませんでした。大胆な機構の簡略化などのイノベーションはありましたが基本的には人間造り、手組み立てであります。ですがスイスの人件費は安かったようで、1868年の時点でこのウォッチのアメリカにおける売価は恐らく6ドルであった、とはハロルド本の記述であります。

程なくロスコフ・ウォッチは莫大な成功への道を歩み始め、やがてロスコフ・ウォッチはスイス時計業界に莫大な利益をもたらす事になります。

余談ですがこの頃の不幸な出来事としてロスコフの死後の事、ロスコフの提唱した基準に達しない、具体的にはモジュール化した脱進機を使ってない、その脱進機も部品精度、組上精度が悪いために性能が出ていない、そういったニセモノのロスコフ・ウォッチが「ロスコフ式」として大々的に輸出された時期があり、これによって未だに「ロスコフ式は質の悪い安物」という印象が一部に残ってしまっている事が挙げられます。当時、きちんと造られたロスコフ・ウォッチはきちんとした性能を出していた"a truly good cheap watch"だったとのことです。この事はロスコフ氏の名誉のためにも付け加えておきたく思います。



●アメリカン・リアクション

ロスコフ・ウォッチはアメリカでも成功を収め始めました。スイスの工場は膨大な量のロスコフ・ウォッチをアメリカへと輸出したのです。安価なロスコフ・ウォッチが人気を博すに連れ、エルジンとウォルサムは低価格グレードのフルプレートムーブメントを市場に出しました。だがまだ高い。ブロードウェイ・グレードのモデルなどもこの例に含まれますがここに至るまでのアメリカ製低価格ウォッチは部品点数は可能な限り減らしてあったものの、完璧に新しいデザイン(設計)という訳ではありませんでした。まだまだアメリカン・ウォッチ・カンパニーなどの会社が生産するに都合の良い方法が捨てられていなかったのであります。これがスイスの低価格ウォッチに対する競争力を失わせていました。

ここでアメリカ人は「安価で性能の良いウォッチ」というものを実現するには壁がある、この壁を打ち破るには「何か根本的にイノベイティブなもの」が必要だという感覚をより強く持つことになります。スイスの低価格時計はアメリカ人に機械生産・マスプロダクションの更なる推進を決心させる要因となったのであります。

こうした安価な時計製造を目論むアメリカ人の一群の中に 、ボストンのエドワード・ロッキ(Edward Locke)とブルックリンのジョージ・メリット(George Merritt)という二人の特許斡旋人(patent solicitor)がおりました。二人は特許を取得するようなアイデアを扱う業界で仕事をしておったのですが、ある時ホプキンス(Jason R. Hopkins)の「ロータリー・ウォッチ」という発明が彼らの注意を惹きました。

ワシントンDC在住のホプキンスは短命に終わった「ワシントン・ウォッチ・カンパニー」の創設者でした。この会社は1875年頃に工作ツールやデュプレックス・エスケープメント付き鍵巻きムーブメントを50個ほど製造した会社です。この頃にホプキンスはデテント・エスケープメントと回転式ムーブメントを持った不可思議なウォッチを発明ました。彼はこれを50セントで売れるのではないかと考えていたのであります(間違いなくハロルド本原文に50セントと書いてあります)。

デテント脱進機に回転式ムーブメント、というと複雑そうで高価そうですが、実際にはこのウォッチは通常のウォッチより少ない部品で製作可能であり、それ故に安価に製造出来るポテンシャルがあったとの事であります。1867年、ホプキンスはロッキ氏と面会し試作品のウォッチを見せました。これが不幸の星のもとに生まれたオーバンデール(Auburndale)というウォッチの物語の始まりであり、同時のそれに続く数多の「ダラー・ウォッチ」たちの快進撃の序章でありました。

ダラー・ウォッチに見られるアメリカ人の「何か根本的にイノベイティブなもの」は実は今までのウォルサムやエルジンなどのウォッチ産業とは別の方向、多分にクロック業界の息のかかった方向からやって参りました。それは一体どのようなものだったのでありましょうか?

(つづく)
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ダラー・ウォッチ列伝 (2)

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●ジョルジュ・フレデリク・ロスコフ

ジョルジュ・フレデリク・ロスコフ(Georges Frederic Roskopf/1813-1889)はもともとはドイツの生まれ、16歳の時にスイスはラショードフォンにやって来て時計師修行をした後、スイスに定住した人であります。この人はずっとエタブリスールとして普通のスイス的な時計商売をしておりましたが44歳の時に突然、

「20フランで買える時計を造ったらバカ当たりするんじゃないか?」

と、いう着想に取り憑かれる事になります。ロスコフいわく「労働者のための時計(proletarian watch)」であります。そしてこの人はその後10年間というもの「労働者のための時計」の実現に奔走苦労をする事になる訳ですが、この人の伝記類を読んでみても何故突然そういう着想を得てそれまでの商売を止めてしまったのか理由が良く判りません。カットモアがその著書で、

「ロスコフはアメリカ市場の動向、最新設備による時計製造ありようについても知っていただろう」

と述べていますが、恐らくこの人はエタブリスールとしてウォッチ輸出などを手がけるうちにアメリカを含めた世界の情報を豊富に入手できるようになり、それを通して時代の空気、変化というものに対して鋭敏な感性を涵養するに至ったのではないかと想像いたします。それが「大衆の時計には莫大な需要がある」という確信のもととなった可能性があると考えております。



●ロスコフ・ウォッチの特徴

"Technique and History of the SwissWatch"
(by E. Jaque and A. Chapuis/Hamlyn Publishing/1970)

という本によればロスコフが「大衆の時計」を造るに当たって練りに練ったコンセプトは以下のようなものでした。

【ロスコフ・ウォッチの理念的コンセプト】
 (1)一般労働者に正確な時計を適価で提供する
 (2)贅沢、華美な外装仕上げはこれを廃止、その分をムーブに使う
 (3)高品質の材料のみを使用する。職人のおっさん達には高度のクラフツマン
  シップに対して報酬を与える事にする(デコレーションには金を使わない)

【ロスコフ・ウォッチの技術的コンセプト】
 (1)必要最低限にまで部品点数を大幅に減らす
 (2)脱進機構を簡略化する
 (3)ゼンマイ巻き上げ機構を高能率なものにする
 (4)輪列の絶対トルクおよびトルク伝達効率を上げる
 (5)単純にして強固なケース構造を採用する

以上のコンセプトを現実化するためにロスコフは以下のような作業を行いました。

【輪列の合理化/バーレル(香箱)の大径化】
ロスコフは大胆にもセンターホイール(2番車)を廃止しました。バーレル(香箱)で直接3番車(に相当する物)を駆動しました。これによって空いたスペースを利用してバーレルを大きくすることが可能になりました。大衆時計を目指していたロスコフ・ウォッチは価格上昇の原因となるジュエル(宝石)軸受けなど絶対使わない事を前提としていたので当然理論的に輪列の駆動抵抗が大きくなるのは明白であります。そう考えると歯車を一枚省略出来る事は巨大なメリットですしバーレルが大きくなる事は駆動抵抗の大きい輪列に対して強力な動力を供給するという意味では有利なものとなったと思われます。ちなみにロスコフ・ウオッチの輪列は図を見る限りバーレル歯車が現代で言う日の裏輪列に相当するものを直接駆動しているようです。

【組み付け式脱進機の採用】
ロスコフは脱進機を地板の上でクチャクチャ組み立てるんではなく、脱進機は脱進機でひとつの部品として事前に別工程でひとつの「ユニット」として組み上げておいて、それを出来上がってきた地板にポンとネジ止めする方法をとりました。これによって工場での生産効率がうんと向上しました。

【ピンレバー式脱進機の採用】
ピンレバー脱進機はロスコフ・ウォッチの代名詞のようになっております。そもそもピンレバー脱進機というものは1798年にルイ・ペロン(Louis Perron)というおっさんが発明したものなのだそうですが、実際問題としてはロスコフがこれに着目するまで殆ど使われる事は無かったようです。ロスコフは最初この「労働者の時計」には「まあシリンダー脱進機を使っとくか」と考えていたのですが、ピンレバー脱進機の改良に熱心だったM.J.グロスマン(Grossman)という大先生と何らかの理由で知り合い、この人に「ピンレバー使わんかいワレ」とこれを強力に勧められ、

「じゃあピンレバーで行くべ」

と、これに決めたのだそうです。どうもピンレバー式脱進機は基本性能が良いのみならず、上記の「事前ユニット化」に適した構造だった模様です。ピンレバー式の「複数の分解可能かつ比較的簡便な部品の集合体」というところがロスコフのエタブリスールとしての長年の経験と勘に訴えるところがあった模様です。ちょっと乱暴ですが、ピンレバー脱進機の動作原理はほぼ「ジュエルド・レバー」と同じ思想のものだと言えると思います。特に「デタッチャブル脱進機」という意味ではジュエルド・レバー方式と同じでシリンダー式よりフリクションは少ないのではないでしょうか。ただインパルスを受ける部分に一切宝石を使用していないので長期的な性能保持は難しい、というところが難点かと思います。

他にもケースを裏ブタなしのムクにしただとか、キーレスワインディングにしただとか、紙のダイヤルを採用しようとして失敗しただとか、ゼンマイ巻きすぎ防止のストップワーク(マルテーゼクロス)を廃止した、など色々とありますが省略します。

(つづく)
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ダラー・ウォッチ列伝 (1)

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●ダラー・ウォッチ誕生の頃の時代背景

さて、近代産業の発展興隆に伴って人々がその意識の変革を迫られることとなったものの一つが「時間」というものに対する概念でありました。産業社会とは荒っぽく言うと労働者が家の周りの畑ではなく、都市部あるいはその近郊の工場や事務所に出向いていってそこで生産作業その他に従事して仕事が終わったら家に帰っていく社会であります。そこには始業時間、労働時間、休憩時間、終業時間という概念があり、人々はこのタイムテーブルに従って能率良く働くことを要求されるのであります。また人々は時間内に工場に到着するためには通勤時間も見込まなくてはなりません。

こうした近代工業社会、産業社会に人々がその身を投じる時、それまでの生活で充分有用だった時間的指標、つまりそれは太陽の高さや教会堂の鐘の音だったりした訳ですが、それらの指標では全く精度が不足していたのです。勿論精度の高い時計というものは既に存在しておりました。ですが当時、時計は非常に高価な物でとても平均的労働者の手の届く物ではありませんでした。平均的労働者の日給が1ドルだった頃、ウォーレンという置き時計は40ドルしました。まともな懐中時計はもっと高かったでしょう。

仕方ないのでそうした人々は町を歩くときキョロキョロあたりを見回してタウンクロックで時間を確認しながら工場に急ぐ、というような事をやっていたそうであります。

そこで人々は考えました。

「ああオレも自分専用の時計が欲しいものだ。安くて正確な時計があればなあ」

これがダラー・ウォッチ誕生の素地であります。ここでちょっと上記"American Watchmaking"(以下ハロルド本)から一部訳してみましょう。


(訳開始)================================================

この国が農業国家から産業国家へとなるにつれ時間単位の行動というものが人生の重要な一部となり、人々にとってビジネスにおける一日の時間管理をする必要性はより大きなものとなった。もし産業社会の中に巻き込まれていなかったとしても既に鉄道網は国中に張り巡らされており、列車の汽笛を無視するのは無理な相談だった。良きに付け悪しきに付け、この国全体がまるで鉄道のように「時刻表(Timetable)」に則って運営され初めていた。そしてそれは人々の無意識のうちに各個人の人生の一部となっていたのである。

このため時計に対する大きな需要が形成され始めた。この需要は時計産業の規模を大きくする助けとなった。そして次に、人々は誰もが買うことの出来る時計を欲した。だが初期の時計産業はその需要に応えることが出来なかった。人々は高価ではないが信頼性が高く使いでのある時計、少なくとも数年は動き続ける時計、そして修理の可能な時計を欲していたのである。

=========================================(訳終わり)


●初期の「大衆の時計」への試み

となれば「安くて正確なウォッチを造れば莫大な量が売れるに違いない」と考えた時計産業人がいたのも当然でありましてアメリカにおいては1860年代からいくつかの会社がこの分野への参入を試みる事となりました。が、これがなかなか苦難の道でありました。値段が下がらなかったのであります。

アメリカにおける「誰もが購入可能な大衆時計」への最初のアプローチはボストン・ウォッチ・カンパニーから始まりました。「C.T.パーカー」という時計を7石の低グレードウォッチとして製作したのです。ハロルドによればこれは恐らく20ドル以下で売られていたであろうとのこと。低価格と言ってもまだまだ一般人には簡単に手を出せる金額ではありません。

ハロルド本から拾ったその後の低価格ウォッチ(inexpensive wataches)の系譜は大体以下の通り。

・P.S.バートレット(アップルトン・トレーシー&カンパニー)

・J.ワトソン(アメリカン・ウォッチ・カンパニー)
 ※ウィリアム・エラリー名も同じモデル。南北戦争による需要喚起を受けて大いに売れた

・ホーム・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)

・ブロードウェイ(ウォルサム)
 ※ハロルドによればこのモデルの売価は10ドルかそれ以下だったとのこと

以上は全て「ジュエルド・レバー・ウォッチ(jewelled lever watches)」であります。つまりウォッチの心臓部である脱進機に高信頼性のレバー式を採用してそのレバーの駆動にかかわる部分であるツメ石、振り石に宝石を採用していたのです。その他の部分にも最低限の宝石を用いていて大体7石〜11石程度のものでありました。ウォルサムはそもそも多石のきちんとしたウォッチを造っている会社でしたから低価格ウォッチといっても上級ウォッチの構造を簡略化した、そもそも素姓がいいというか、或る程度以上はコストダウンしにくい構造のものであったようです。

こうした「一般大衆の時計」のアメリカ市場においてアメリカ製品の競争相手となっていたのはスイス製シリンダー・ウォッチでした。ウォルサムの最新鋭機械設備で造られた「ブロードウェイ」が売価10ドル程度であったのに対してこれらのスイス・ウォッチは8ドルほどで売られていたのです。

ただこのスイスからやって来たシリンダー・ウォッチは相当にショボいウォッチだったようです。このあたり、ハロルド本から引用してみましょう。

(訳開始)================================================

それでもまだスイスのシリンダー・ウォッチとの競合があった。スイス時計はわずか8ドルかそこらだったのである。これらの安物スイス・ウォッチは手工業によってぐちゃぐちゃと組み立てられた物で分業制で作られていたために安かった。その工程のどの段階においても手作業でどたばたと作られたもので(the manufacturing process was performed rather hastily by hand)、結果としてその品質はバラバラ、多くの場合は低品質だった。それに伴ってそれらの時計はタイムキーパーとしては不規則に過ぎ、しばしば新品であるにも拘わらず調整・修理を必要とした(訳注:昔のソ連時計みたいですね)。全部が全部このテの物では無かったにせよ、こうした理由でスイス時計の評判というのは芳しくなかったのである。

==============================================(訳終わり)

私のようなスイス時計ファンにはにわかに受け入れがたい話ですが、これも当時のスイス・ウォッチのひとつの真実であります。スイスの汎用ウォッチの品質の悪さについては1876年当時のロンジンの技師長ジャック・ダビドも「ダビド・レポート」の中で「アメリカ製の時計に比べて我々の造る時計はこんなにもお粗末なものではないか!」と悲憤慷慨しています。

このように「スイス製はボロい」と言われつつもその安価さゆえにアメリカにおいて常に一定量のシェアを確保していたようです。

従来の形式のウォッチの場合、アメリカ式マシン・メイド・ジュエルド・ウォッチでは値段を下げるには限度がある、スイス式の手作業ぐちゃぐちゃ組み立て方式の場合は品質に問題が出る、というこのジレンマに際して、

「何か根本的にイノベイティブなものでないとウォッチというのはこれ以上値段は下がらず『真の大衆時計』の実現は難しいのではないか」

という認識が時計業界人の間で徐々に共通のものとなって来ました。そしてその「何か根本的にイノベイティブなもの」はまずスイスからやって参りました。

ロスコフ・ウォッチであります。
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ダラー・ウォッチ列伝 -Preface-

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●ダラー・ウォッチとは

1850年代以降に起こった時計大衆化の歴史について考えるとき「ダラー・ウォッチ」(dollar watches)というのは見過ごすことの出来ない巨大なジャンルであるかと思います。「ダラー・ウォッチとは何だ?」と言う事をごく簡単に要約しますとそれは、

「高価な仕掛けは持たない簡素な造りながら、平均的な収入の労働者が自分のために買い求める事の出来る売価1ドル内外の、一定期間きちんと動く、19世紀後半にアメリカで生まれ大量に生産され人々に愛用されたマシン・メイド懐中時計」

という事になるかと思います。つまり「一般大衆の時計」であります。ダラー・ウォッチが誕生するまで人類は真の意味での「一般大衆の時計」を持たなかったと言っても過言ではないと私は思います。

「大衆の時計」という概念そのものは思ったよりも古いもので、私の知る中ではA.L.ブレゲが1794年頃に「大衆が受け入れる時計」という表現を「スースクリプション」というウォッチ販売募集チラシの中で用いたのが「大衆の時計」という概念を世に提示した最も古い例であるように思います。

しかしながらブレゲの提唱する「大衆の時計」たるスースクリプションは現代の目から見ると構造こそはシンプルであるもののその材質、工作、手間のかけ方などを見るにこれは問題外の高品質なもので充分以上に立派な高級品であると言わなければなりません。その価格は当時600リーブル。これを購入できたのは恐らく一部の富裕な市民 に限られていたのではないかと想像されます。

ブレゲが「大衆のための時計」という概念を提唱してから「真の大衆の時計」が誕生するまでに実際には100年近い年月を必要としたことになります。本トピックではその経緯について考えてみたいと思います。

尚、 今回のダラー・ウォッチに関する書き込みは何年か前mixiの「時計の歴史」コミュニティに書き始めて中断していたものの再掲です。こちらのブログに移動したのを機に中断したままだったところ以降も順次書き加えていく予定でおります。

(主な参考図書)

"American Watchmaking"
- A Technical History of the American Watch Industry 1850-1930 -
by Michael C. Harrold
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"The Watch That Made The Dollar Famous"
by George E. Townsend
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"Watches 1850-1980"
by M. Cutmore
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※ハロルドの"American Watchmaking"は1981年出版の質素な装丁のものですが、内容は素晴らしいものです。このような本を残してくれたハロルド氏には感謝あるのみです。

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