2009年5月22日金曜日

ダビド・レポート (2)

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●Almost bankruptive company, Longines

経営難の最大の理由はこの頃のスイスの会社としては非常に例外的な事ですがフランションは「機械による新時代の時計製造を行う」という理念を掲げてそれを実行したため常に開発費が売上を上回っていたからであります。これでは商売は成り立ちません。

「フランションのやつは一体何をやってるんだ」

同郷の時計業界人でさえフランションのやっている事の意味が理解出来ずにこれを嘲笑していたそうであります。

それではフランションは何故このような理念をかかげて、社名をアガシからロンジンと変えてまで、敢えて人のやらない苦難の道を選んだのか?簡単に言ってしまうとそれはフランションが通常の人よりうんと明晰で未来の見える男だったからだと思います。

ロンジンはその前身のアガシ時代、1845年に既にアメリカに代理店を持っておりました。アメリカの代理店を経営していたのはアガシの従兄弟のオーギュスト・メイヤーという人物です。その後この代理店との関係はアメリカ側の経営者が交代しても一度も途切れることなく継続し、アガシ及びロンジンは常にアメリカからの新しい情報を入手し続けていました(この代理店がその後ウィットナーとなる)。特に1866年以降この代理店の代表となったユージン・ロベール(J. Eugene Robert)との関係は密接でした。「アメリカにおけるアガシ(ロンジン)の売れ行きがお互いの死命を制する」という大前提を良く理解した両者の間には非常に濃密な往来がありました。ロベールからは、

「今のアメリカの流行はこうだ。だからアガシの売れ行きが落ちてきた。至急これこれの対策をして欲しい」

という要請が頻繁にあったもののようです。

フランションを突き動かしたのはこのアメリカからの情報であったろうと私は想像しております。スイス時計人の殆どは1876年まで「機械による時計製造」という黒船の存在を知りませんでしたがアメリカとの間の風通しの良かったフランションらは10年以上前に「我々の商売はやがてアメリカの奴らとの競争になる」と気づいていたと思われます。またこの時代はそろそろヨーロッパにおいても産業革命の成果があまねく行き渡ってきた時期で動力、鋳造、鍛造、切削、歯車といった各種の近代工業的機械要素を時計業界に導入することが可能になって来たことも大きな理由だと思われます。先見の明のあるフランションは「絶対やれるはずだ」と考えたのでしょう。

そして1865年のある日、フランションはオーギュスト・アガシにこう切り出します。オーギュスト・アガシとはロンジンの前身アガシの創立者であります。

「オーギュスト伯父さん、今度ロンジンの地に建てる工場は全く新しい工場にしたいんです。最新の機械設備を導入して機械でウォッチを製造する今までスイスの誰もやったことのない工場です。僕が望んでいるものはリフォームではありません。レボリューションなんです。きっと成功すると信じてます」

長年コントワール(Comptoir)稼業を続けて来たエタブリスールで新時代の技術には詳しくない筈のオーギュスト・アガシでしたが、驚いたことに彼はこの甥のリスキーな提案をあっさり受け入れました。

「いいだろう、やってみなさい。今やアガシはお前の会社だ、お前の好きにしたらいい…。だがその機械設備はどうやって作るのかね?我々の周りには時計を造る者はいくらでもいるが製造機械を造ることの出来る人間はひとりもいないのではないか?」

「甥のジャック・ダビドを考えてます。奴は今パリで機械工学を学んでいますが来年卒業したらすぐアガシの手伝いをさせるつもりです」

(※ 注・会話は私の想像です。事実関係は "History of Longines"に基づいています。以下、会話が出たらそれは全部私の想像です。事実関係に間違いは無いように気を付けています。ちなみに『リフォームではなくレボリューション』というのは同書にある"There had already been effective reforms,but they were only reforms and he thought of a revolution."から採りました)

ロンジンの工場にはこのような成り立ちがあり、フランションはオーギュスト・アガシの快諾を得て勇躍、新時代のウォッチ製作に乗り出したのですがその代償は非常に高いものにつきました。まるでフランションの青雲の志をあざ笑うかのようにその後10年のロンジンは苦闘の歴史を刻むことになります。その10年間を調べるとそこには苦労、苦闘、失望そして莫大な負債しか無いような印象であります。

特にフィラデルフィア博覧会においてアメリカン・ウォッチ・カンパニーが晴れがましくも「マシンメイド・ウォッチ」の成果を誇示していた1876年はロンジンにとって最悪の年でありました。資金繰りに困窮したフランションは会社存続のために考え得る限りの方法を模索しましたがついに万策尽き果ててこの年の初め、倒産を覚悟いたします。その時にフランションがオーギュスト・アガシに宛てた手紙の文面は以下のようなものでありました。

「大変残念なお知らせをしなければなりません。現在の私が置かれた(財政的)危機、私の主要マーケットであるアメリカ市場の不調により私は破産を余儀なくされる見込みです。債権者たちが私の破産および債務免除に同意してくれる事を望むばかりですが彼らはそれに満足してくれそうでしょうか。来週の水曜日、2月9日の午後3時に事務所でお会いしたいと思います。私の置かれた立場を確認していただくと共に何かアドバイスをいただけたらと思います」

既にフランションは債務整理の話をしています。事態が如何に深刻だったかが窺えます。この手紙は"History of Longines"全体の文脈の流れの中で読むともう気の毒で読んでられないような感じです。この時、スイスでほぼ唯一の「マシンメイド・ウォッチ」の芽がまさに摘み取られようとしていたのですが、何故かこの時ロンジンは潰れませんでした。理由は良く判りません。"History of Longines"の著者も「良く判らないが潰れずに仕事を継続した」という意味の事を述べています。ひょっとしたらアガシがもう一踏ん張りして資金を拠出でもしてくれたのでしょうか?

(つづく)
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