2009年8月30日日曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(7)

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H4内部構造評価会議

ここで少々脱線気味ではありますが、ジョン・ハリソンのH4の「内部構造評価会議」とはどのような性質のものだったかについて振り返ってみましょう。

1764
年の航海においてハリソンのH4が赫々たる成果を挙げた翌年の176529日、ロンジチュード委員会はH4の成果を認めつつも、ハリソンが未だH4の構造原理を明かしていない事を問題視する決議を通過させました。「H4の構造原理公開の要請に従えば賞金の半分を渡そう。そしてこのH4以外のタイムキーパーを製作してそれが同様の性能を発揮したら残りの半分を渡そう」というものです。そして不可解な事にこの決議は法案化され、ジョージ3世の20章第5法として議会を通過してしまうのです。ほとんどハリソンを糾弾するに近い内容です。そして委員会は1765528日、ハリソンが賞金の半分を受け取る為の条件として以下の通り決議しました。

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1.H4を製作する大元の図面、説明書き、そしてH4そのものを委員会に譲渡すると誓約する事

2.
委員会が指定する人々に口頭でより詳細な説明をする事。H4をその人々の前でバラバラに分解し、それに関する全ての質問に答え、それを製作するときの一般に知られていないポイント ─例えばスプリングの熱処理など─ について明示する事。必要があれば実験検証も行う事。

3.H1
H3までの三基のタイムピースも委員会に譲渡する事 ========================================================


非常に高圧的な内容と言っていいと思います。この決議に対する抗議としてハリソンは委員会に憤激に満ちた手紙をしたためる事となります。その手紙を以下、少しばかり訳してみましょう。


(訳はじまり)=====================================================


私は、私に対してもっと違った応対をして然るべき人々によって、自分がいいように弄ばれたと考えずにはおれません。もしアン女王の第12法(訳注・ロンジチュード法)が実行されないものであるならば、私は自分の発明を完璧なものに導く為に、何故こんなにも長い年月にわたってその法律にずっと鼓舞されなければならなかったのでしょうか?そして私の発明が完成を見た後、何故私の息子は二回にもわたって西インド諸島に行かねばならなかったのでしょうか?

私の息子が最後の航海指示を受け取ったとき、(ロンジチュード法が実行されないという事を)息子に言っておいていただければ良かった。アン女王の第12法においては考えもされていなかった新しい制限事項を設けられた、あなた方の決議による新しい法律がどのみち施行された事でしょうから。私が言っているのは、もしそうしていただければ、私が今遭遇しているような様々な仕打ちを事前に察知出来ただろうという事です。

私の事例は非常に苛酷なものであるという事が認められなければなりません。ですが私は、議会によって承認された英国の法律に対して、その遵守を迫る事によって苦しむ最初で、そしてこの国のためにも、最後の者となることを希望するものであります。

私が私の正当な報奨金を受け取っていたならば、つまり神が私に与え給うた能力の向上に費やされた40年にわたる徹底的な集中の後にその状態に至ったならば、かくしてこの世の発明の全てがそうであるように、私の発明が然るべき道をたどるのであれば、疑いも無く私は熟練工たちにその原理と製作技術を教示したに違いないでしょうし、そうする事を大いに喜びとしたでありましょう。

しかし、今私が提示されているのは何と大きくかけ離れた事態である事か。つまり、私が全く見も知りもしない人々に(内部構造を)教示するという事、そしてもし私が彼らの満足の行くまでに説明する事が出来なかった場合、私は何も手に入れる事が出来ないのです!(訳注:報奨金の事を言ってます)

私にとって実に苛酷な運命でありますが、この私の発明を奪われるかも知れない世界にとってはもっと苛酷であります。私が委員会の紳士達、熟練工達に心を開いた自主的な態度で私の発明の全ての原理を説明しない限り、事は必ずそうなるに違いありません。

彼らはいつでも殆ど自由に私の(時計製作に使用した)機器類を頼りにする事が出来ます。そしてもしこれらの熟練工の誰かが私の発明を理解出来るほどに優秀であれば、彼らが私から盗んだ発明に対してどれほどの報奨金を喜んで与えるかの決定権はあなた方にあるのです。

そして老齢にある私は一人座り、報奨金を受け取ることは無かったけれども自分がそれを成し遂げたのだという事実(訳注:最初に経度法の定める精度のクロノメーターを製作した事を指すと思われます)に安んじると共に、報奨金を受け取ったという妄想の中で窮乏に苦しむよりはこの方がずっと心が安息なのだと神に感謝しなければならないでしょう。

=====================================================(訳おわり)



※ハリソンは文章を書くのが苦手だったとのことです。この手紙の原文もなかなか文脈のつながりが難解なものでした。ハリソンの意を汲み取って?意訳せざるを得ませんでしたが、いずれにしてもハリソンの怒りと失望の深さ、無力感、徒労感といったものが文章全体に満ちています。

※写真は上記の手紙とは全然別の内容のハリソンの自筆レポート。ハリソンの文章は当時のイングランド人が読んでさえ不可解だったそうです。ハリソンといい、ブレゲといい、理知的な時計作りをする癖に文章がさっぱり要領を得ないという時計師が時々いるのが不思議です。



特にハリソンが抗議したのが「実験検証的公開」(Experimental exhibitions)でした。ハリソンは自分が辛酸を舐めるようにして開発したH4の故なき公開を頑強に拒んで、

「ハリソンは自分の身体にイングランド人の血の一滴でも流れている限り、そのような行いに同意する事は決して出来ないと宣言して荒々しく委員会から出て行った」

と伝えられております(グールド本P.61)。

共に譲らないと思えた両者でしたが結局、ハリソンが折れる事になりました。「実験検証的公開」という屈辱的な条件に同意したのです。ジョン・ハリソン、この時73歳。

「こんな事を続けていたのでは報奨金を受け取る前に自分の生命の炎が先に尽きてしまう」

あるいはそのような無力感、徒労感による自棄的な判断であったかも知れません。

かくしてロンジチュード委員会が選任した7名のメンバーからなる「H4内部構造評価委員会」とも言うべきsub-committeeがつくられ、1765822日からの数日間、ハリソンの工房においてH4の「実験検証的公開」が行われました。

委員会の7人のメンバーとは、すなわち座長のネヴィル・マスケリン、副座長のケンブリッジ大学の数学者ウィリアム・ラドラムそしてトーマス・マッジ、ラーカム・ケンドール、 ジョン・バード、ウィリアム・マシュー、ジョン・ミッチェルであります。この中でマッジ、ケンドール、マシューの3名が時計師であります。ジョン・バードは四分儀・六分儀など天測装置類をつくっていた人。そしてこの7名以外の人間は内部構造評価会議に出席出来なかったと伝えられております。
※Neville Maskelyne, Rev. William Ludlam, Thomas Mudge, Larcum Kendall, John Bird, William Matthews, Rev. John Michell

「神にかけてこの時計のメカニズムと製作方法について説明をします」

という誓約の後、ハリソンは上記メンバーの立ち会いのもと、H4を厳かに分解していったとの事です。

さて、このような経緯で行われた実験検証的公開でしたが当時、クロノメーター・メーカーとしては無名のジョン・アーノルドはこの委員会で明かされた秘密を知る立場にありませんでした。その彼が「このバランスはハリソンのNo.4に使われているものの殆ど複写である」とグールドが述べる程、H4に酷似した部品を持つクロノメーターをなぜ製作する事が出来たのでしょうか?

(つづく)


※今回の書き込みの最後が前回の書き込みの最後とほぼ同じになってます。全然話が進んでいないのが一目瞭然です。大体回り道が多すぎるんですこのブログは。

ハリソンに詳しい方ならば「アーノルドは委員会が出版したH4解説パンフレットを参照したのではないか」とおっしゃるかも知れません。確かにロンジチュード委員会は評価会議の成果として、H4の構造について記した"The Principles of Mr.Harrison's Time-keeper, with Plates of the same"というパンフレットをハリソンの図解を添えて出版しております。ですがこれはグールドによれば「これを手助けとして誰かにH4と同様のタイムキーパーを作らせるには全くもって不充分。無理」という内容だったそうなのでやはりアーノルドにとっても参考にならなかっただろうと私は思います。

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2009年8月19日水曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(6)

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●デタッチド・シリンダー・エスケイプメント

-The Detached Cylinder Escapement-

マリンクロノメーターを集中的に研究した人でルパート・グールドという有名な人がいます(Rupert T. Gould/1890-1948/ 英海軍時代の肩書きから"Lieutenant Commander Gould" とか単に"Commander Gould"と呼ばれる事も多い)。映画"Longitude"において主要登場人物としてハリソンのH1の復元をしていたりしたのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

この人が1923年、33歳にして"The Marine Chronometer -It's History and Development"という本を上梓しました。90年近く前の本ですが素晴らしい内容の本であり、その後の全てのマリンクロノメーター研究の基礎となったと思います(その後刊行されたマリンクロノメーター関連の書物でグールド本の業績に言及していないものはまずない)。

※画像は1924年のグールド氏

さて、このグールド氏が192464日にスイスのパウル・ディティシャイム(Paul Ditisheim)氏に書いた興味深い手紙が残っています。クロノメーター研究史上重要な手紙ですので以下、少し訳してみましょう。


(訳はじまり)===========================
私は貴殿に歴史的クロノメーターとしては珍しい発見について詳細をお知らせしたく、この手紙をしたためています。その功績の大半は私ではなく、貴殿もご存知と思いますが、チェンバレン氏に帰せられます。しばらく前「アーノルドらしきクロノメーター・ムーブメントをロンドンのショップで見かけた。後世の発明家によって実験されていたものだと思う」と彼が伝えて来ました。「何故そのとき買わなかったんだ」と聞くと「持ち運ぶには嵩張りすぎていたしそこまで重要とは思わなかった」との事でした(訳注:チェンバレンはアメリカ人。持って帰る気になれなかったもののようです)。

そこで私はそれを見に行き、結果としてそれを購入しました。ざっと調べた段階ではそれがどの程度のものか正確には判らなかったのですが、やがてそれは見れば見る程とんでもないものだという事が判りました。くまなく調べた結果は以下の通りです。

このクロノメーターは一度も改造されていません。ジョン・アーノルドによって作られた最も初期のクロノメーターのひとつです。私は1768年製と見立てました。これは現在最も初期のものと考えられている王立協会(the Royal Society)に保存してある二つの(アーノルドの)クロノメーターよりも確実に古いものです。

地板にも文字盤にも名前は入っていません。しかしながらバランスやコンペンセーションの作り方、箱の構造など1ダースもの点において、これはアーノルドでしかあり得ないと断言出来ます。これは王立協会の二つのクロノメーターに酷似していますがしかし、そのメカニズムはまだ荒削り(primitive)なものであります。私はこの詳細を、もし可能ならば、貴殿の本に掲載される場所があるかも知れないと思って書き送っています。

ムーブメントとバランスの配列はハリソンのNo.4を思わせます。すなわち、この時計はセンター・セコンド、ムクのスチール製の軽量/三本ウデのバランスと平らなバランススプリング(平ヒゲ)を有しております。

(中略)

脱進機は、私の経験の及ぶ限りにおいて、全くもってユニークなものです。それは言うなれば「デタッチド・シリンダー」(detached cylinder)とも呼ぶべきものです。バランススタッフ(訳注:テンワの主軸部分)は一見したところ通常のシリンダーを有しているように見えます。ところが詳細に観察してみると、そのシリンダーのインパルスフェイス(訳注:シリンダーを切り欠いた部分で脱進機のトゥース-tooth-により駆動力を受ける部分)は二つの小さなローラーにより形成されています。そして脱進機の休止はシリンダーの内壁は全く関与しないのです。衝撃を発生しない時、エスケープ・ホイール(ガンギ車)はレバー脱進機のようにフォークのついたアームによって駆動されるアンクル(anchor)にでもってロックされます。このアームはバランススタッフのローラー上のピンによって動作します。

(中略)

このムーブメントは私の考えでは私が見た中でもクロノメーターの歴史上最も注目すべき証拠となるものです。

このムーブメントはアーノルドがその最初期においてセンターセコンドハンドの採用、コンペンセーションカーブの採用から輪列配置にいたるまでジョン・ハリソンNo.4の影響下にあったという事、そして最も初期においてさえ彼がデタッチド脱進機の必要性や歩度の調整幅を持たせる事の必要性を認識していたことを示しています。

私は後日、ムーブメントの写真、そして現在修復洗浄中の機械そのものを貴殿にお送りしたいと思います。
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(訳おわり)
(*1)


私はチェンバレンやグールドが「これはアーノルドでしかあり得ない(it can only be an Arnold.)」というのならその通りだろうと思います。特にグールドの挙げた根拠は説得力があります。また同じくグールドの1940年の注釈によれば、

「このバランス(ホイール)はハリソンのNo.4に使われているものの殆ど複写である。コンペンセーションカーブも同様である」
原文 "The balance was almost a facsimile of that used on Harrison's No.4 - so was the compensation curb..."後略

との事であります。コンペンセーションカーブは構造も長さも殆どH4と同じだったそうです。ジョン・アーノルドがクロノメーターの実機製作を始めた最初期においてはジョン・ハリソンのH4を参考にした、もしくはその模倣から出発したのは明らかというべきでしょう。ただ、脱進機そのものの構造についてはハリソンのものを全く参考にしていない点は注目に値します。

さて、ここで大問題となる事がひとつ。それは「何故ジョン・アーノルドはH4の構造を知る事が出来たのか?」という事です。実機研究なくして「殆ど複写」という程の機構の実現は困難な筈ですが、そもそもジョン・アーノルドは1765年のH4の内部構造公開に立ち会っておりません。公式的にはジョンはH4の内部構造を知り得る立場に無いのです。それでは何故アーノルドはハリソンH4の構造を知る事が出来たのでしょうか?

(つづく)

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(*1)
この手紙はマーサー本のP.16-17に紹介されています。「デタッチド・シリンダー脱進機」の構造については英文を読む限り、おぼろげにしか判りません。特にエスケープ・ホイールを止めるアームの構造が不明確です。残念ながら第二次大戦中にこの「アーノルド・プリミティブ・クロノメーター」は失われており、現在ではそれを確かめる術がありません。

また、ディティシャイムが自分の著書にグールドから供給された写真を使用したかどうかも不明。ネットで検索するとディティシャイムのいくつかの著作が見つかりますが全部フランス語である上に、11,200ドルもしたりするのでとても購入する気になりません。

余談ですがこれはコマンダー・グールドがチェンバレンと友人だった事、そしてアフィックス・バランスで有名なパウル・ディティシャイムとも親交があった事を示す興味深い手紙だと思いました。チェンバレンというのは"Major" Paul M. Chamberlain、有名な"It's About Time"の著者です。

尚、Clutton & Danielsの著書"Watches"においてもこのデタッチド・シリンダー・エスケイプメントがアーノルド最初のクロノメーターと記載されています。

また、手紙文中にある「王立協会の二つのクロノメーターとは1773年6月以降のキャプテン・クックの南極探検航行供されたアーノルド初期のクロノメーター"No Number"と"No.1"のことです。この二つのクロノメーターについては後日詳説いたします。

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2009年8月15日土曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(5)

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18世紀中盤、ロンジチュード・プロブレムの解決法として最後に残ったのは「月距法(lunar distance method)」と「クロノメーター法(chronometer method)」でした。前者は天文計測によって自船の経度を割り出す方法(星図、天文暦と計算を必要とする手の込んだ方法です。私は正直なところ、この方法をよく理解しておりません)、後者は出発点の時刻に合わせたクロノメーターを船に搭載して、航行先で計測した太陽時とクロノメーターの示す基準時とのずれから自船の経度を計算で割り出すという比較的簡素な方法です。

この時代、大洋を航海する船上において高い精度を発揮するウォッチ(クロノメーター)があれば複雑な天文観測に頼らずともロンジチュード・プロブレムは解決するという事はほぼ判っていました。問題はそれだけの精度を発揮するウォッチを人類は未だ作れていなかった、その精度を実現した者は歴史上かつて誰もいなかったという事です。天文学者たちは「時計のような不安定でいい加減なインストルメントで何が経度が測れるものか」と悪口を言っていました(科学者・アイザック・ニュートンもクロノメーター法に否定的見解を述べた一人。その理由は『そんな精巧なウォッチが製作可能とは思えない』というもの)。

「誰がその精度を達成するのか?」

この問題に最初に名乗りを上げ、素晴らしい実績をあげたのがジョン・ハリソンだったのです。ハリソンのタイムキーパーが叩き出した数値だけを見れば彼は明らかに満額の報奨金を受け取る資格を持っていました。

その資格はもちろん1714年にイギリス政府によって可決され、アン女王の名において施行されたロンジチュード法に由来します。その法律に付随して定められた報奨金詳細は以下の通りです。

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・イングランドから西インドに至るまでの6週間の航海において以下の精度を達成したタイムピースを製作した者には誰であれ記載の報奨金を支払うものとする。

(1)経度1°以内の精度………£10,000
(2)経度2/3°以内の精度……£15,000
(3)経度1/2°以内の精度……£20,000
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上記のうち(3)でものごとを考えると経度にして0.5°という事は時間にして2分という事になります(地球は1時間で15°回転する)。つまり6週間(42日)で2分(120秒)以内という精度が必要とされる訳です。ということは、

→120秒÷42日=2.857秒

つまり20,000ギニーを受け取るためには42日間の平均日差が2.857秒以内のクロノメーターを作って見せれば良いという事になります。1764年のバルバドス航海におけるハリソンH4の平均日差が1.48秒ですからこれは完全に報奨金20,000ギニー満額を受け取る条件を満たしております。しかも条文には"..the reward would be paid to ANYONE producing a timepiece that kept within close limits.."と明記してあるのです。

ところがジョン・ハリソンとロンジチュード委員会との間には積年の確執がありました。ハリソンは委員会の有力メンバーである天文学者たちに憎まれていたため彼らにありとあらゆる難癖をつけられ、その業績を不当に評価され、賞金の満額支払いを拒否されるという不遇をかこつていました。
※ジョン・ハリソンについてのこれ以上の詳細は本トピックの趣旨から離れますので他日、別のトピックを立てたいと思っております。数年前、mixiにて始めかけてあっさり挫折したのですが。


ですがウォッチメーカーたちにしてみればジョン・ハリソンの達成した精度は驚愕以外の何者でもありません。

「一体どうやったらそんな精度が可能なのか?」

ジョン・ハリソンの叩き出した実績を知って、ジョン・アーノルドは時計師として"Precision Timekeeping"に純粋に興味を持ったという事もあっただろうし、腕に自信のある時計師としてのプライドをいたく刺激されて心が騒いだという事もあっただろうと思います。アーノルドの性格を考えると、自分と関係のないところで起こっている一連のインシデンツに彼は一種の焦燥感に似た感情すら抱いたのではないか、私はそのように想像しております。

更に言うならば、ロンジチュード委員会の提示する各種賞金がアーノルドにとってインセンティブとなった可能性も否定出来ません。アーノルドがクロノメーター・メーカーとしてデビューした時点ではジョン・ハリソンはまだロンジチュード・プロブレム解決の懸賞金20,000ギニーのうち10,000ギニーを受け取ってはおりません。ロンジチュード委員会はあれこれと難癖を言い募ってはその支払いを頑強に拒否していたのです。

「まだ10,000ギニー残っている」

ジョン・アーノルドが果たしてそこまで考えていたかどうかは不明です。ですがその巨額の懸賞金とは別にロンジチュード委員会が提示する各種の懸賞金がジョン・アーノルドを鼓舞しなかった事はなかっただろうと思います。この各種報奨金については1848年刊行の"The Chronometer: It's Origin and Present Perfection" (by Thomas Porthouse)という本にいくつかの記載があります。当時の報奨金が一つだけではなかった事が判って非常に興味深く思いました。

私の推測ですが恐らく1764年頃、指輪時計を完成させた後にアーノルドは王宮的なウォッチ製作に対する興味を急速に失い、それに代わるものとして"Precision Timekeeping"に対する研究開発に手を染め始め、以後これに魂を奪われるがごとく急激に没頭したものと思われます。

実際、アーノルドはそれ以降二度と王宮的なウォッチを作る事がありませんでした。ロシアのツァーに「オレにもジョージ3世みたいな指輪時計を作ってくれ」と依頼されても適当な理由を付けて断っています。1770年に英王室に納めた二個目の指輪時計は一個目に比べると出来具合、作風にひどく差があるため別人の作だと考えられています(マーサーによればスイス・エボーシュではないかとの事)。その頃のアーノルドは既にそうしたものに興味が持てなくなっていたのでしょう。それよりタイムキーピングの実験に自分の時間を使いたかったのではないかと思います。


ところで "Precision Timekeeping"の要諦は一に高性能脱進機の実現にかかっております。ここでいう高性能脱進機とは具体的には"Detached escapement"と"Temparature compensation"の2点を満足させたものであります。

"Detached escapement"についての詳説はとても簡単に済むものではないので別の機会に譲りたく思いますが手短に言うとバージ脱進機やシリンダー脱進機は別名"frictional rest escapement"と呼ばれ、その機構上エスケープホイールが停止(ロック)している間、バランスホイールの回転が脱進機構に起因するフリクションから逃れることがありません。これは置き時計で言えば振り子の往復運動に常に物理的なブレーキをかけているに等しい状態です。これが高精度達成の阻害要因となっていました。

それに対して"Detached escapement"(デタッチド脱進機)とはピエール・ルロアやトーマス・マッジの時代以降に出て来たデテント式、レバー式などがその代表ですが、エスケープホイールが停止中でもバランスホイール自体は脱進機構に起因するフリクションにさらされる事無く自由に運動をする事が出来ます。このフリクションロスの無い事がバランスホイールのヴァイタルな回転を促し、高精度を達成する上で非常に有利な要素となるのです。この頃の Precision Timekeeping を志す時計師たちは皆、この「デタッチド脱進機」を夢見ておりました。

勿論ジョン・アーノルドが高性能脱進機を志した時代はまだまともに「デタッチド脱進機」が動いていなかった時代、トーマス・マッジがレバー脱進機を考案して数年が経過したくらいの「デタッチド脱進機黎明期」で皆、手探りで試行錯誤をしていたのでありました。ですが彼のプロトタイプ・クロノメーターを見る限りアーノルドが早い時期から「デタッチド脱進機」を指向していたのは確実と思えます。

"detached"というのは「脱進機の動作(エスケープホイールのロック、アンロック)とバランスホイールの自由振動との両者がインパルスのある瞬間を除いては『分離(detach)』している、あるいは『非接触(unconnected)』である、という風に理解していただいていいと思います。アーノルドは自分の脱進機を人に説明するのに「これはunconnectedなんだ」という言葉を使っていた形跡があります。

(つづく)
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ブレゲとジョン・アーノルド(4)

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●ジョン・アーノルド、クロノメーターに心を騒がす

超精密な指輪時計をつくっていた男がクロノメーターの製作を手がけるというのは随分な方向転換のように思えます。ですが彼は1770年を境に王宮的な時計製作の道を全く放棄してしまったかのように見えます。そして突然クロノメーター・メーカーとなり、以後1780年代中盤まで全身全霊をかけてクロノメーターの開発に打ち込む事となります。一体何がアーノルドにそのような方向転換をさせたのでしょうか?

ジョン・アーノルドの経歴を見ていて不思議に思うのは「ワークショップを構えた1762年から1768年までの6年間、アーノルドは一体何をしていたんだろう?」という事です。この間、1764年の指輪時計以外の作品の話は一切出て来ません。最初の2年間は指輪時計に没頭していたとしても、その後の4年間はジョン・アーノルド個人として時計らしい時計を作った形跡が全く無いのです。"Jn. Arnold London"と刻印されたウォッチが世の中に登場するのは1768年以降の事であります。またクロノメーターのプロトタイプが完成したのは1768〜1769年と考えられています(グールド説)。その間アーノルドは一体何をしていたのか?

恐らくアーノルドは"Finisher"をやっていたのだと思います。"Finisher"というのはコーディネーター(スイスでいうエタブリスール)の持ち込むラフ・ムーブメントを仕上げて納める仕事です。それに加えて時計修理や時計師仲間の下請け業務も行っていた事でしょう。どれも食べて行く為に必要で大事な仕事です。そして時折王宮に出かけてジョージ3世の時計の面倒を見たり、ボタンを作ったりもしていたのでしょう。ただこれらは超有能なアーノルドにしてみれば難易度の低い、言わば退屈な仕事だったのではないでしょうか。

そんな生活をしながらもアーノルドがある頃から自由な時間の大半を使って脱進機の基礎研究など、時計師としての根幹的な技術研鑽に熱中していたのは疑いが無いと私は考えています。何故ならアーノルドのクロノメーターは最初から優秀だったからです。

アーノルドの製作したクロノメーターはキャプテン・クックの船団に載せた3基を除いて全て最初から高性能を発揮しました。クロノメーター・メーカーとして名乗りを上げる前に集中的な基礎研究、研鑽の積み重ねが為されていたと考えるしかありません。

アーノルドをそうした基礎研究、研鑽に駆り立てたものは時代の空気、あるいは時代の熱気では無かったかと思います。ちょうどこの頃は「ロンジチュード・プロブレム」が解決の端緒につきかけた頃で、世の人々は大きな関心をもって事態の成り行きを見守っていました。

※いくつかの本を読むにこの頃、ロンジチュード問題は知識階級の人々を中心にちょっとした熱狂状態にあったものと私は考えています。

「オレ抜きでこの話を進めてもらっては困る」

とまで思ったかどうかは判りませんが、アーノルドは腕に覚えのある時計師としてこの問題に関心を持たない訳にはいかなかったのでしょう。

アーノルドが独立したワークショップを持ちながらも自分の名前の入ったウォッチを一切製作しなかった6年間、ロンドンでは高性能なジョン・ハリソンのクロノメーターNo.4(通称H4)が何かと世間の耳目を集めていました。

ここでアーノルドが工房を構えてからクロノメーター・メーカーとして名乗りを上げるまでの8年間にクロノメーターの世界で起きた −そして同時にアーノルドの心を騒がせたであろう− 目を惹く出来事を見てみましょう。

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・1762年
ジョン・ハリソンの息子ウィリアムがH4を携えてジャマイカからポーツマスに帰還。途中嵐に見舞われたため航海は往復で5ヶ月にわたるものとなったがその間のH4の成績はオーバーオールで「113秒の遅れ」というものだった(往路については僅か5秒の遅れだった)。

・1764年
H4が再び実航海テストに供される。イングランド〜バルバドス〜イングランドという往復経路の全112日間の旅程におけるH4の成績は「166秒の進み」というものだった。振動、温度変化とも条件の厳しい大洋航海中の船上にありながらこのウォッチは1日に1.48秒しか狂っていない計算になる。だがロンジチュード委員会はそれでも賞金の支払いを拒否したばかりか今度はH4の構造と製作方法をロンジチュード委員会に公開する事をハリソンに迫った(交渉不成立)。

・1765年
この年、ロンジチュード委員会はH4監査のための小委員会を設けてハリソンにH4の内部構造公開を6日間に亘って行わせた。その上でネヴィル・マスケリンはラーカム・ケンドールに構造公開されたH4の複製製作を命じる。天文学者マスケリンのハリソンへの意地悪ぶりは芸術的。

・1766年
マスケリン、ハリソンの許からH1、H2、H3を持ち去る。非常に悪辣。

・1769年
ケンドール、H4の複製を完成させる。高性能を発揮。
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※画像はH4のダイヤル側とムーブメント側。ハリソンはジョン・ジェフリーズのウォッチからスモールサイズ・クロノメーターH4の着想を得たと言われる(と言っても直径は13cmほどあるとのこと)。








「112日の航海で僅か166秒の狂いだって?」

ジョン・アーノルドは1764年初頭にもたらされたのそのニュースに重大な関心を寄せたに違いありません。

「ハリソン氏のH4はそこまでの精度を達成しているのか」

ジョン・アーノルドにとってそれは非常な驚きだった事でしょう。その時、アーノルドはちょうどジョージ3世に献呈する指輪時計の最終仕上げにかかっている頃でした。

122日で166秒。

この数字は指輪時計の仕上げにかかっているアーノルドの頭に度々去来した事と思われます。この精度を振動条件も温度条件も劣悪な船上で達成したという事は驚き以外の何者でもありません(据え置き型クロックであれば当時でもJohn Sheltonあたりの時計師なら達成可能な精度だったと言いますが、船上時計としては驚異的な精度です)。

「ではハリソン氏が人類で初めてロンジチュード・プロブレムを解決した人物という事になるのか」

アーノルドはそんな事を思ったかも知れません。

(つづく)
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2009年8月13日木曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(3)

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●ジョン・アーノルドの独立、そして王宮デビュー

さて、そんなジョン・アーノルドでしたがひょんな事から漂泊の時計師生活に別れを告げてワークショップを構える事になります。

ある時アーノルドはウィリアム・マクガイヤという人に頼まれて彼の所有するリピーターウォッチを修理しました。アーノルドにとっては何でもない事だったのですがこのマクガイヤ氏がアーノルドの技術にいたく感心してこう申し出たのです。

「ジョン、君ほどの腕のある者がどうしてジャーニーマンをやってるんだい?良かったら自分の工房を持ってみないか。資金は私が貸そうじゃないか」

アーノルドも「いつまでもこんなんじゃいけない」と思っていたのでしょうか、彼はこの話に乗ることにしました。これが1762年5月、ジョン・アーノルド26歳の時の事でした。ワークショップを構えた場所はロンドンのDevereux Courtというところであります。

そしてその2年後の1764年、驚いた事にアーノルドは突如として王宮デビューを果たします。国王ジョージ3世に指輪型の精密なウォッチを献上したのです。マーサーによれば1764年の"Coventry, Warwick and Birmingham Magazine"という当時のタウン情報誌?に以下のように書いてあるそうです。


「この月曜日、コベントリーのアーノルド氏は指輪の中に入る程に小さく新奇なリピーターウォッチを国王陛下に献上した。国王陛下の命により作られた、指輪の中にはめ込まれた新奇なウォッチを携えて国王陛下を待つ間、アーノルド氏はウェールズ公妃、メクレンブルク王妃に紹介される光栄に浴した。お二人はこの 優れた小さな機械に慈悲深くも賞賛の意を表された」

この時アーノルドは随分晴れがましい思いをしたもののようですが、このウォッチが有名なアーノルドの「指輪時計」(これは1個目のもの。2個目の指輪時計は1770年)です。話によればムーブメントの直径は9mm程度という小さなものなのにハーフ・クォーターのリピーターだったそうです。


※画像は1778年1月の"Westminster Magazine"の一部です。本文とは関係ありませんが「フランス宮廷からのプレゼントとしてシャーロット王妃に最高のウォッチが贈られた」とか「そのウォッチを作ったのはイギリス生まれのフランス国王専属ウォッチメーカー(Gregsonの事です)だ」とか書いてあります。当時、イギリスの主要都市においてはこのような「瓦版」とも言うべきタウン誌?が発行されていて、街のニュースやインシデンツを掲載していたもののようです。アーノルドの指輪時計もこんな感じで"Coventry, Warwick and Birmingham Magazine"のページを麗々しく飾ったのでしょうね。

「いくらジョン・アーノルドだからって一体全体そんなものの製作が可能なもんだろうか?現代でも困難な仕事ではないか」

と私などはこの指輪時計の仕様について怪しんだりしたのですが、当時Woodsという人が書いた"Clocks and Watches"という本に"only a third of an inch in diameter"と書いてあるとのこと。1764年の"Gentleman's Magazine"などという情報誌?にも同様の事が記載されているそうですので事実としてそういう事があったのでしょう(ひょっとしたら当時の1インチは現代の1インチより大きかったのかも知れません)。

Wood氏によれば「アーノルドはこのデリケートで傑出したウォッチの製作のために殆ど全てのツール類の製作から始めなければならなかった」という事だったようなので相当小さなウォッチだった事は確かです。こういうウォッチを作るのですからアーノルドが傑出した腕の時計師であったことは疑いありません。

工房を開設して2年そこそこの青年時計師がいきなり王宮デビューを果たすに至った経緯は全く判りません。本当に全然判らないのです。想像に過ぎませんが工房開設後のアーノルドは或いは時計修理稼業の傍ら極小ウォッチの製作に没頭していたのでしょうか。ワークショップに出入りしてその過程を目にした人々の口から「何だか凄いウォッチを作っている奴がいるぞ」と広がった噂がやがて科学や技術に興味を持つ国王ジョージ3世の耳に入るところとなり、

「どれ、そのアーノルドとやらを呼んでその時計を見てみようではないか」

という具合に声がかかったのかも知れません。

ジョージ3世はその指輪時計に大いに驚きこれを賞賛したとの事です。同時に国王は自分と同年齢の時計師アーノルドの事が気に入ったようでこれ以降、アーノルドを身近に置いてちょっとした友人のような扱いをしていた形跡があります。

1770年刊行の "The London Museum of Politics etc."という本に「自らを『王の友』と呼ぶ一党のリスト」という記事があってそこにジョン・アーノルドの名前が「アーノルド、時計およびボタン製作者」として掲載されている事からもそのように想像される訳です。

※ちなみに「王の友」(The King's Friends)というのは歴史書によれば「国王ジョージ3世によって買収された議員たちで構成された組織で国王の政策実現に協力した」という結構ナマグサイ一団だったらしいです。が、アーノルドの例を見るに元々は本当に国王の友人たちの楽しい集まりだったのかも知れません。肖像画は国王ジョージ3世。

ジョージ3世は「ボタン収集」が趣味だったそうです。世の中にそんな趣味があるのかと思いますが、フランスのルイ16世なども錠前作りが趣味だったと言いますから国王というものも立場上色々と難しい事が多くてどうしても変わり者になってしまうのでしょうか。いずれにしてもアーノルドは精密な指輪時計を作る程の金属加工技術を見込まれてボタン製作をさせられていたらしい。

「アーノルド、今度はこんなボタンを作ってくれないか」

国王からそんな依頼を受けて、

「陛下、私は本当は時計師なのですが」

などと軽口を言いながら時々ボタンを作ったりするような楽しい日々をアーノルドは過ごしていたのでしょうか。

ついでに言えば当時の英王室ではドイツ語での会話が標準だったそうです。これは先々代の国王ジョージ1世および先代のジョージ2世がハノーファー出身で英語を解さなかったためです。アーノルドは若い頃の放浪時代にオランダ語を身につけていたためドイツ語を話す宮廷人との意思の疎通にそれほど困る事は無かったようです。時計の修理などに際して「あのドイツ語を解する時計師アーノルド」として宮廷人たちからも何かと重宝されていたであろう事は想像に難くありません(ただしジョージ3世自身は英国生まれの英国育ちで逆にドイツ語が不自由だった模様)。

そのまま行けばアーノルドは「王の友」として、王室御用達の時計師として、それなりの人生を過ごす事が出来たようにも思えます。ところがある頃、具体的には1770年を境にアーノルドの人生は大きく転回する事になります。この年、ジョン・アーノルドはロンジチュード委員会に自らの製作したプロトタイプを持って乗り込み、クロノメーター・メーカーとして突如、名乗りを上げたのです。

(つづく)
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2009年8月12日水曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(2)

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●ジョン・アーノルド、青年時代の放浪

世界最優秀のクロノメーターを製作する男、というと何となく冷静沈着で理知的な人物を想像しますが "John Arnold & Son, Chronometer Makers 1762-1843" (by Vaudrey Mercer/以下『マーサー本』) という本に紹介されているジョン・アーノルドの人生の軌跡を辿ると、実際の彼は案外血の気の多い、直情径行の人だったのではないかという印象を持ちます。

同書によればもともとジョン・アーノルドは父親(伯父という説もあり)の許で時計師修行をしていましたが、18歳前後のある時、その父親と口論をして立腹の余り工房を飛び出し、そのまま逐電してしまいます。それで何と海を渡ってオランダのハーグまで行ってしまった。

何故オランダなのか?理由はさっぱり判りませんがその地で訳の判らない言葉を学びながら結局2年ほどウォッチメーカーの手伝いをしていました。

そして1757年、アーノルドはイギリスに戻って来ますが父親の許には戻らずその後5年間ほど、ジャーニーマンとしてイギリスの各地を渡り歩いていたそうです。放浪癖のある人だったのかも知れません。若き日のジョン・ アーノルドは時計職人でありながらも場所によっては鉄砲鍛冶職人などをして働いていたそうです。

これはアーノルドが技術の幅の広い男だったという事を示しているのみならず、そもそもこの頃はジャーニーマンの職能が未分化な時代だったという事をも示しているように思います。ジョン・アーノルドの生きた時代の雰囲気が少し理解出来るような気がして興味深く思いました。

時代の雰囲気、と言えばマーサー本に18世紀の伝説としてソールズベリーというロンドン西方の街にいた「アーノルド」という名前の無謀な時計師の話が紹介されています。その街には「ソールズベリー塔」(Salisbury spire)という高さ132メートルの塔があったのですがこの塔の先端には風見鶏が設置されていて、これをどうしても定期的にメンテナンスする必要があったのですがこの仕事が大変だったそうです。

というのも4分の3の高さまでは塔の内部の梯子を上って行くことが出来るのですがそこから上に登るには小さなドアを開けて外に出る必要があります。そして強風に吹かれて恐ろしい思いをしながら石造りの塔の外側に叩き込んである鉄の「持ち手」を掴んで塔の先端にまで登るのです。そこには何の安全具もありません。足を滑らせたが最後、132メートル下の地面まで真っ逆さまです。そうした状態でジャーニーマン達は風見鶏に注油作業を行っていたそうです。

「あんな恐ろしい仕事は無い」

と街の人々は話し合っていたらしい。
で、18世紀中盤のある日のこと。ソールズベリーのとある居酒屋において、

「ウォッチと道具を持ってソールズベリー塔のてっぺんに登って、その場所でウォッチを正しく分解整備して1時間以内に戻って来れるか」

という賭け話が盛り上がったのだそうです。恐らく言い出しっぺすら本気にしない、酔っぱらいの時計職人達の戯言だったのでしょう。ところがアーノルドという名前の時計職人が、

「よし、オレがやってやる」

そう名乗りを上げたそうです。

「おいおい大丈夫かよ」
「本気かよアーノルド」

そんな空気の中、そのアーノルドは恐怖のソールズベリー塔にすいすいと登って尖塔の頂点にたどり着くと風見鶏の支柱に自分の身体を縛り付けました。そしてその状態でウォッチのメンテをして後、悠々と降りて来ると「どうだ」とばかりメンテの終わったウォッチを皆の前に差し出して賭け金をせしめたというのです。

※画像はネットで検索したSalisbury Spireです。恐らくこの建物の事でしょう。よくもこんな建物の頂上でウォッチ修理などする気になったものです。


このアーノルドという人物が名前も時代も場所も職業も後の世界的クロノメーター作家、ジョン・アーノルドと非常に符号する点があるのでマーサーは「ひょっとしたらこの無謀なアーノルドとは若き日の放浪中のジョン・アーノルドなのではないか」と考えたようです。

そこでマーサーはこのアーノルドについて精力的に調査をしました。その結果、この無鉄砲なアーノルドが世界的クロノメーター作家のジョン・アーノルドと同一人物であるかどうかについては疑問が残る、という結論に達したとの事。ですが私は当時の時代的雰囲気を伝える非常に興味深い話だと思いました。ジョン・アーノルドはこのような万事何かと粗削りな時代の雰囲気の中で悩み多き青年時代を漂泊の時計師として過ごしていたのでしょうか。

(つづく)
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ブレゲとジョン・アーノルド(1)

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●オルレアン公、ジョン・アーノルドを訪ねる


ブレゲの生きた時代は時計史上の巨人とも言うべき時計師が数多く輩出した時代でしたがそのなかでもブレゲが最も敬慕し、かつ影響を受けたのは或いはジョン・アーノルド(1735 or 1736-1799)ではなかったかと私は考えております。

この二人が友人となるきっかけを造ったのはオルレアン公(Duc d'Orleans/Louis Philippe II /1747-1793)という人であります。後にフランス革命の動乱の中、ギロチンの刃の露と消える運命を持つこの裕福な貴族はかなりの時計好きだったらしく、1780年にブレゲ最初期のペルペチュエルを入手したと考えられています。

エマニュエル・ブレゲによればマリー・アントワネットがはじめてブレゲのペルペチュエルを入手したのは1782年10月近辺との事ですからそれよりも早く入手していたという事になります。オルレアン公はマリー・アントワネットに敵意を持っていたといいますから「王妃より早くペルペチュエルを手に入れたい」と思ったりしたのでしょうか。

※画像はオルレアン公。当時フランス随一の富裕な貴族だったとのこと。

オルレアン公所有のペルペチュエルは以下の機能を備えたものでした。



・プラチナウェイトによる振り子型自動巻(Perpetuelle)
・ミニッツリピーター
・レバー式脱進機(*1)
・パラシュートサス(*1)
・温度補正つきバランス(テンワ)
・パワーリザーブ表示
・温度計



ブレゲがペルペチュエルを初めて世に問うた頃の最高の野心作のひとつ、当時最高級の複雑時計と言えるでしょう。オルレアン公はこの精密なブレゲ・ペルペチュエルをいたく気に入って外出の折りに頻々これを携行していたようです。


※写真は元オルレアン公所有のブレゲNo.54。このウォッチは長らく行方不明でしたが1949年にひょっこりとパリのブレゲ工房のジョージ・ブラウンの元に修理依頼で入って来たのだそうです(*1)。



オルレアン公はロンドンと縁の深い人物で度々ロンドンを訪れておりましたがその何度目かの外遊の折、彼はロンドンの著名な時計師、ジョン・アーノルド (John Arnold / 1736-1799)を訪ねます。これが何年頃の事か正確な記録が残っておりませんが恐らくは1785〜1786年あたりの事ではなかろうかと私は考えて おります。

ジョン・アーノルドはこの頃既にヨーロッパ最高のクロノメーター製作者の一人として名声を確立しており非常な尊敬を集めておりました。そんな事もあって時計マニア?でもあるオルレアン公は高名なジョン・アーノルドと時計談義をしたかったもののようです。相手が有名なフランスの貴族とあってはジョン・アーノルドもうやうやしくこれをお迎えせざるを得なかったのではないでしょうか。

この時の二人の会話の内容は伝わっておりませんがクロノメーターの話題を避ける事は無かったと思われます。何しろ目の前にいるのはイギリス海軍のキャプテン・クックやキャプテン・フィップスらが冒険的な大航海に供用したクロノメーターを製作した本人なのです。フランス海軍を率いた経験を持つというオルレアン公がクロノメーターに深い興味を持ってジョン・アーノルドにあれこれ尋ねたのではないかと想像する事は許されるでしょう。

例えば、"The Chronometer: Its origin, and present perfection"(by Thomas Porthouse, 1848年刊行)という本を読むと「(かつて)オルレアン公はロンジチュード問題解決に100,000リーブルの賞金を出した」という記述を見つける事が 出来ます(p.9)。どの代のオルレアン公がこの懸賞を提示したのかは定かではありませんが(『オルレアン公』は襲名)その家系の当主であればクロノメーターに興味と関心を寄せるのは当然の事に思えます。オルレアン公はフランスのクロノメーター作者であるルロアやフェルディナン・ベルトゥについての意見を求めてジョン・アーノルドを困らせたりしたかも知れません。


さて、和やかに歓談が進むうち、やがてオルレアン公は懐中からひとつの時計を取りだしてアーノルドに見せました。

「これはパリのブレゲという時計師が私のために造ってくれた時計であるが貴君はどう思われるか。とくとご覧いただきたい」

このブレゲが恐らく前出のNo.54だと思われます。

「ブレゲ、その名前は私も聞き及んでおります。では拝見いたしましょう」

ジョン・アーノルドはブレゲのペルペチュエルをオルレアン公の手からうやうやしく受け取りこれを観察する事しばし、やがてその顔色はみるみると変わって参ります。

「これは一体…?」

ジョン・アーノルドはこのブレゲの素晴らしさに非常に衝撃を覚えると同時に感嘆、賛美の念が湧くのを禁じ得なかったと伝えられております。アーノルドはオルレアン公にこの時計に対する賞賛の辞を伝えると同時に製作者ブレゲの人物について熱心に尋ねたもののようです。恐らくブレゲが誰に師事したかなど経歴についても聞いたりしたのではないでしょうか。



「そうかそうか、ワシのブレゲにはジョン・アーノルドもびっくりか」

ウワッハッハ、とオルレアン公が上機嫌で帰るのをうやうやしく見送るジョン・アーノルドでありましたが、バタン、とドアが閉まった次の瞬間ジョン・アーノルドはくるりと振り返ると息子の名を呼びました。

「ジョン!息子のジョン・ロジャー!」
「はいパパ」
「パリにブレゲという驚いた時計師がおるから今から会いに行く事にした。支度しなさい」
「今からパリに?工房はどうするんですかパパ?」
「工房は一時休業にしよう。さあ急ぎなさい」

という訳で、ジョン・アーノルドは息子ジョン・ロジャーを連れて当時のドーバー海峡を渡る旅の苦労も省みず、いてもたってもいられないという風情でパリに急行したとのこと。この殆ど性急とも言える行動、大時計師らしからぬフットワークの軽さであります。ジョン・アーノルドはブレゲの一体何がそんなに気に入ったのでしょうか?

その事を考えるにあたっては、まずジョン・アーノルドという時計師についての多少の理解が必要であるように思えます。ここでブレゲと出会うまでのジョン・アーノルドがどのような人生を過ごして来たか、ジョン・アーノルドとはどんな男だったのかという事について手短に振り返ってみる事にしましょう。

※上の肖像画は左からジョン・アーノルド、息子のジョン・ロジャー・アーノルド、妻のマーガレット。

(つづく)
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(*1)に関する付記



このNo.54の仕様はいくつかのブレゲ伝記本に載っているものですが実はこのウォッチ、少しばかりおかしいのです。このウォッチがはじめてオルレアン公の手に渡ったのが1780年であったとしてもその後、この個体には大幅な改変が加えられている形跡があります。

まず、1780年の時点でブレゲが既にレバー式脱進機を採用していたとは考えにくいという点。他に現存するブレゲのウォッチでレバー脱進機が採用されている一番古いものは1786年製作のNo.3-4/86(1786年4月製作のNo.3という意味)です。上記No.54の1780年という製作年が正しいとするとその後6年間レバー脱進機を作っていないのが不思議。

そもそも1780年と言ったらレバー脱進機の発明者であるトーマス・マッジ がジョサイア・エメリーに「お前、オレの発明を真似しただろう?」と訴え出てすった
もんだしていた頃であり、まだレバー脱進機という方式そのものがよちよち歩き、黎明の頃であります。この時点でブレゲがレバー脱進機を作っていた、というのは時代考証的に少々無理があるのではないかと思います。ブレゲには伝聞、簡単な図解以外にレバー脱進機の情報を得る方法は無かったのではないかと思います。

パラシュートについても微妙に疑問が残ります。というのもジョージ・ダニエルズの研究によればパラシュート機構を備えたブレゲのウォッチが現れ始めたのは1790年頃からだという事だからです。となると No.54のパラシュートはそれより10年ほど出現が早いという事になります。

ただ、ブレゲ自身は晩年に「私は1780年にオルレアン公 とマリー・アントワネットにペルペチュエルを作った。どちらもパレシュット(pare-chute)をつけていた」とはっきり書き残しています。だからパ レシュット(パラシュート)の開
発は後年の我々が考えているより10年程早かった、ただ現存している個体が確認出来ないだけだ、という可能性があります。 その一方でこのジョッティングの内容が既に老境にあったブレゲの記憶違いである可能性も否定出来ません。このあたりの判断はとても難しいです。

そしてこのウォッチの最高最大の矛盾点はプラチナウェイトに刻印されたインスクリプションにあります。"Faite Par Breguet Pour Mr. le Duc Dorleans en 1780"(1780年にオルレアン公のためにブレゲによって製作された)とありますが1780年の時点ではオルレアン公の名は実は"Louis- Philippe d'Orleans"といってまだオルレアン公国を相続する前なので"Duc"(英Duke)の称号を得ておりません。"Duc"の称号を得るのは1785年の事です。だからこのインスクリプションは1785年以降に新たに彫られたものだと考えられる訳です(あるいはウェイトごと交換したかも知れません)。

このウォッチは全体的な特徴が初期ペルペチュエルというよりはむしろ1787年以降にシリーズプロダクションとして作られた31 個の後期ペルペチュエルに似ています。ですが1787年以降のブレゲ新帳簿にこのウォッチは記載されていないとのこと。だからこのウォッチのオリジナルが 1780年というのは事実らしく思えますが1780年代中後半に脱進機まわりを交換するような大改造が施されたというのも恐らく事実なのではないかと想像します。

「ブレゲ君、メンテナンスついでにこのウォッチに君の新しい脱進機やら何やらを取り付けてくれんかね。ああ、あとあれも頼むよ、時計落としても壊れない仕掛け。何つったっけ、パレロワイヤル?」

「パレシュットでございます」

「そうそう、それ。パレロワイヤルはウチの庭だった。とにかく頼むよブレゲ君。それからボクの名前も彫っておいて」

1780年代後半にブレゲはオルレアン公からそんな依頼を受けたのではないでしょうか。

そんな訳でジョン・アーノルドがオルレアン公に見せられたブレゲはもう少しシンプルなものだったかも知れません。オルレアン公は複数のペルペチュエルをブレゲに注文しているようなので別の仕様のペルペチュエルと混同して話が後世に伝えられたのかも知れませんね。


※ ちなみにパラシュートは現在"Parachute"と通常は表記しますがブレゲ本人はどうもジョッティングには"Pare-Chute"と書き殴っている模様です。"Pare-"は「防ぐ、避ける」という意味の接頭語。"Chute"は「落下」という意味。共にフランス語。まあどうでもいい話なので以後は 「パラシュート」という用語に統一しようと思います。







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2009年6月30日火曜日

ダビド・レポート(12)

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ここからダビド・レポート第2章は意外な結論に向かいます。ダビドが得た恐ろしい答えは以下の通りです(ダビド・レポートP.18)。

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これらの会社(ウォルサム、エルジン、スプリングフィールド)が値段を下げようとして行っている努力は通常はお互いを叩き合うために行っているとは考えられていない(実際にはそれと同じ結果になっているのだが)。

これらの努力は公然と輸入ウォッチに向けられているのである。アメリカ人はスイス製ウォッチを駆逐した上での市場独占を欲している。彼らは長期間に亘って輸入を減退させるために必要な犠牲を払う事が出来るし、またそうするつもりだと暗に認めている。
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最後の一行はワトキンスの英訳文では"They imply that they can make the necessary sacrifices to discourage importation for a long time, and they will do so"となっています。想像するに、

「何だってまたあなた方アメリカ人は同国人同士で安売り競争をして叩き合ってるんですか?」

というダビドの質問に対して、

「いや、それは違うな。つまり君たちの安い時計が邪魔なのさ。君たちさえいなくなれば市場は我々の独占だ。そうなれば値段なんてあとから好きにコントロール出 来るだろう?だから我々はアメリカ人同士で叩き合っているんじゃなくて、君たちスイスの時計からこの国におけるチャンスを奪い去ろうとしていると言う訳だね」

と答えた業界人がいたんでしょうか。

これにはダビドも呆然としたようで、

「そんな馬鹿な。これだけの大会社が採算ギリギリのところで株主への配当もおろそかにしたままで我々スイス・ウォッチが壊滅するまで安売り競争を仕掛けられる ものか!第一彼らの生産量はまだ年間250,000個にしか過ぎず、それではこのアメリカ一国全土の需要を賄うことも出来ないじゃないか」

とこれは逆にファイトを燃やす結果となったようです(但しアメリカウォッチ業界の生産キャパシティはその後数年でダビドの予想以上に伸びましたが)。

かくしてダビド・レポート第2章は闘志に燃えたダビド氏の、

「アメリカの工場はこのゴールに到達する前に値段を上げるのを余儀なくされるだろう。そして輸入品はこの価格上昇から直ちに利益を得るであろう。そして、輸入品を駆逐した後にアメリカ合衆国の工場が市場をコントロールして価格を上げる事が可能となる期間、つまりこの錯覚に基づく目標の追求に費やされた数多の犠 牲の代償として得られる期間は余りに短いものとなろう」

という言葉で締めくくられております。ここでダビド氏ははっきりとアメリカ・ウォッチ産業の構造的弱点を発見し、アメリカ市場に付け入る隙を見出した、というところでありましょうか。

ところで、私がこれまで読んだダビド・レポート以外の時計本で、

「ウォルサム及びエルジンが行った価格競争の真の目的はスイスウォッチをアメリカ市場から駆逐する事にあった。それを成し遂げて市場を独占した後に彼らはウォッチの価格を引き上げて大儲けするつもりだったのだ」

という記述を読んだ記憶は無いように思います。だからダビド・レポートの話には少々荒唐無稽な違和感を覚えないでもありません。でもジャック・ダビドがこんな事で嘘を書く理由も無いのでやはり事実なんでしょうね。

時計の歴史本では語られていなくとも1876年当時、誰かダビドに向かって「君たちにはこの市場から出ていって欲しいんだ」と言ったアメリカ人がいて、ダビ ドはそれに対して猛然と闘争心を燃やした、という事が事実としてあった。これもダビド・レポートの持つ臨場感だと思います。歴史本は過去形ですがダビド・ レポートは現在進行形なのです。

ちなみに、このあたりのダビドの意気軒昂な反応、闘争心は頼もしく思うのですが、同時に何だか可笑しくもあります。というのもダビドはアメリカ時計人を指して「だが彼らは年間250,000個のウォッチしか作れないではないか」と言っていますが、同時期のロンジンがその10分 の1の生産量もあったかどうか(1874年で年産15,000個)。しかもそのロンジンという名のスイスのショボい工場(失礼)は累積赤字で息も絶え絶えの状態なのであります。「お見それしました」と尻尾巻いて国に帰って転職先を探すのが正常な神経だと思うのですがそれを、

「オレたちは絶対アメリカの産業と戦える。絶対だ!」

と考えるのですからやはり一国の産業を救うような人はこれくらい気宇壮大じゃないとダメなんだな、と感心いたしました。ジャック・ダビド、やはり大物であります。


*   *   *   *   *   *   *   *

第2章のご紹介は以上です。なるべく簡潔に手短に、と思っていたのですが無理でした。

次はいよいよ第3章「内部組織」です。これも長くなるでしょう。ですがこのダビド・レポート第3章ほどアメリカのウォッチ産業の組織の運営のされ方やワークメンたちの働きぶり、ワークメンたちの慎ましくも幸福な暮らしぶりなどを詳しく解説した文章は他に無いのではないかと思います。アメリカ人たちはウォッチを造るのに忙しくて自分たちがいかにしてウォッチを造っていたか、いかにして品質管理をしていたか、いかにして作業を行っていたかについては余り書き残す機会が無かったようです。

それをたまたま1876年にスパイ行為?を働きに来たジャック・ダビドというスイス人
がその詳細を書きとどめました。ジャック・ダビドは期せずして後に滅ぶ事となるアメリカ・ウォッチ産業の繁栄の証言者となった訳であります。

(つづく)
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ダビド・レポート(11)

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以上で当時のアメリカン・ウォッチ・カンパニーの「支出」の見当がつきました。それでは「収入」の方は一体どうなっているのでしょうか?アメリカン・ ウォッチ・カンパニーの収入の推定にあたってダビドは「年間ウォッチ生産個数から売上を予想する」という方法を採りました。その根拠は同社の「日産360 個」というウォッチ生産能力です。この頃のウォルサムは年間305日稼働でしたから、

→360個×305日=109,800個/年

という計算になります。ここでダビドはウォルサムの年間ウォッチ製造数を100,000個と想定します。問題は単価の違う各モデルの生産数分布です。10万個のウォッチの内訳はどのようなものか?

ダビドはそれを市場の実感、各種聞き取りから以下のような内訳であろうと仮定しました。

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ダビドによる1876年のウォルサム各モデル生産数分布推計
=============================================
・Ameican Watch Company............................1,000個
・Appleton & Tracy Co.....................................3,000個
・Waltham Watch Co..............................14,000個
・P.S. Bartlett...........................................16,000個
・W.Ellery................................................16,000個
・Home Watch........................................25,000個
・Broadway.............................................25,000個


この各モデルの数量に工場出荷単価をかけて積算すればウォルサムの年間売上高がつかめる筈です。レポート中の細かい数字は省略しますがダビドが掴んでいた各モデルの工場出荷額から計算した上記の100,000ピースのウォッチの総売上がいくらになったかというと何と、

→$795,300/年

にしかならないのであります。これはいささか少ない額であります。というのも工場の年間生産コストは前述の通り、

→$715,000/年

でありますから工場生産における利益は$80,300という事になります。これでは前述の広告宣伝や支社維持などの営業経費が全く出ません。営業経費を含めた総支出で考えますと、

→795,300-997,500=マイナス202,200ドル

話にならない大赤字であります。

とは言っても現にウォルサムは赤字を出さずに営業しているのですからこれはダビド
の計算の何か、経費の計算か収入の計算か総生産数の見積のどれかが間違っているの
でしょう。或いは仕切価格を間違えて計算しているのかも知れません。また本社と支社(agency)との間で複雑な金銭のやり取りがあったかも知れません。

例えば各モデル別生産数分布を単価の高いものが沢山売れていると仮定すればすぐ何万ドルもの差が出る、とダビドも述べています。またフル稼働すれば生産個数も年間約110,000個と約10%増の生産数になりますので単純計算だと売上も10%増となります。

この計算についてはダビドもおかしな計算になっているとは認めつつも自分の収集した情報のどこに間違いがあったか良く判らない様子です。彼によれば「どの数字もかなりリアリティがある数字なのだが」という事であります。


私はこの130年も前にスイス人が異国のアメリカで行ったスパイ行為?として行った計算が結果として10〜20%間違っていたからといって特に奇異とするにあたらないと考えています。

そ れよりもここで注目すべきは「ダビドはどこを間違ったのか」という事ではなく、アメリカのウォッチ会社の経営は意外にも高コスト体質でそれほど利益に富む物では無かった、という事ではないでしょうか。例えば売上高が10%程度減少すると途端に大幅赤字に転落して大騒ぎするような経営だった、という事は正常な時でも営業利益はほんの数%しかない会社だったという事になります。意外であります。ウォルサムやエルジンはもっとバンバン儲けていたのではな いかと思っておりました。勿論1876年が不況の年だったという事も忘れてはなりませんが(実際1878年頃からウォッチ生産はバクハツ的に伸びます)。

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個人的にはこの薄利体質が数十年後のアメリカウォッチ産業衰退の原因の一つになったと考えております。競争に疲弊して次世代への設備投資をする事が出来なかったのではないかという感触を持っております。この事についてはまた機会をあらためたいと思います。
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このあたりのコスト構造はダビドも興味深く思った事でしょうがその一方でダビドは、

「何だってまたアメリカの時計人はこんなに躍起になってウォッチを安くしようとするのか?」

という疑問を抱いたようです。これだけ個数を沢山造っているのだから単価にほん
の少し上乗せするだけでもっと利益が上がる筈ではありませんか。

(つづく)

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ダビド・レポート(10)

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例えば広告宣伝費。1876年当時のエルジンやウォルサムは広告宣伝に類する費用として以下のような支出をしていたそうです。

・各種ジャーナル誌への広告掲載料
・各種年鑑などへの広告掲載料
・問屋や小売店に配布するカタログ類製作費用
・アドレスカード製作費用
 ※ワトキンスの英訳文が"address cards"ですが何の事か良く判りません。店名入りチラシのようなものかノベルティのようなものでしょうか?

・錫合金製品質保証メダルの製作費
・販売その他に有用な事をしてくれた人々への贈呈用ウォッチ現物
 ※有名人などへの贈呈分も含まれているのではないかと思います

ダビドはウォルサムやエルジンがありとあらゆるジャーナル類に広告宣伝を掲載していると聞いて「ヨーロッパでは絶対あり得ない事だ」と驚いています。当時のヨーロッパにおけるウォッチの広告というのは業界誌紙にチョロッと掲載される程度のものだったそうです。

ところが冗談ではなくアメリカにおいては一般人の読む全てのジャーナル類においてこの2社の広告を容易に見つけることが出来たそうです。ワトキンス英訳文 が"magazines"ではなく"journals"ですから現代で言う"TIME"や"LIFE"みたいなお堅い雑誌の全てという事ではないかと思います。日本で言えば文藝春秋やダイヤモンドやプレジデントなどのおっさん雑誌にいちいちセイコーやザ・シチズンの広告が掲載されている、といった感じで しょうか。そして「週刊大衆」とか「実話時代」とか「週刊エロトピア」とか「ヤングオート」とか「少年ジャンプ」などは当然広告対象から除外されていたでしょう。冗談です。

アメリカにおける絨毯爆撃のような広告の効果が絶大であると見て取ったダビドはレポートの中で、

「アメリカの工場を褒めそやしている感のある我々のこのレポートが間違ってもアメリカのウォッチ宣伝に挑発的に使われる事が無いよう充分注意しなければならない」

と大真面目に心配していてこれにはちょっと笑いました。でも確かに、

「スイス人もびっくり!アメリカン・ウォッチの実力の前にスイス人顔色無し!」

みたいな見出しでうっかり流出したダビド・レポートが広告で引用されたりしたらスイス人にとっては不名誉な事この上ない、と言うか慄然とする事態ですね。そう言った意味でもダビド・レポートは断じて秘匿されねばなりません。

ダビドによれば「エルジンが1874年にこの種の広告宣伝物に費やした費用は15,000ドルである。ならば恐らくウォルサムも殆ど同額であろう」とのこと。という事はこれで経費総額は、

→715,000+15,000=730,000ドル

となりました。


それではもう一つの主要な営業経費、販売支社の維持はいかほどのものだったのでしょうか。これが実は広告宣伝費など問題にならない程の莫大な費用を要したようです。当時ウォルサムはボストン、ニューヨーク、ロンドンに、エルジンはニューヨーク、シカゴ、ロンドンとペテルスブルグに支社を持っておったそうですがダビドによれば、

「これらは超絶豪華な会社で製品のコストを目に見えて上昇させているに違いない」

のだそうです。ダビドの聞いたところではウォルサムのニューヨーク支社の年間経費は$100,000、ボストン支社で$50,000なのだそうです。ロンドンは25,000 フラン(大体$117,500くらいか)。ウォルサムの工場の年間生産コストが$715,000である事を考えると支社維持というのはまた随分コストがか かるもんなんだなという印象です。ニューヨークとボストンとロンドンの支社の経費をここで加算すると、

→730,000+267,500=997,500ドル

となります。つまり1876年当時のアメリカン・ウォッチ・カンパニーの年間総支出額は100万ドル近くあったと考えられます。スイスはサンティミエのロンジンという名のショボい工場(失礼)からやって来たジャック・ダビドにとっては天文学的な金額に思えた事でしょう。

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尚 この「支社」のワトキンス英訳原文は"agencies"です。ただ、原文の文脈を読んでいくと代理店というよりは直営の販社や支社のような形態に思えましたのでメールでワトキンス氏に尋ねてみました。そうしましたら「agenciesというのは曖昧な言葉だけどこのエージェンシーというのはウォルサムの 支出によって設立され、準備されたものです。但し彼らは彼ら自身の経営マネージメントをする自由を与えられていて、実際にウォルサムの工場から一旦ウォッチを買って、代理店みたいにして売るという商売形式でした。このエージェンシーは卸もしたしリテール販売もしました」との事でした。迷いましたが今回は敢えて「支社」と訳しました。
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(つづく)
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ダビド・レポート(9)

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さて、ダビド・レポート第2章「諸工場の財務状態(Financial Conditions)」は数字が多いため一見地味な内容に思えます。ですがこの数字を読んでみると非常に面白いのです。ジャック・ダビドの厳しい?財務分析を通じて現れる当時のアメリカン・ウォッチ・カンパニーやエルジンの経営状況というものが非常に興味深く感ぜられます。以下、長くなりますがお時間のある方は是非お付き合い下さい。

*   *   *   *   *   *   *

さて、この第2章においてダビドは 「アメリカ式生産というのはどれ程の資本を必要とするのか、経営は成り立つのか、そしてそれはどれほどの利益を生むのか」という疑問に対する回答を導くべくアメリカン・ウォッチ・カンパニーをサンプルとしてその経営内容についてあれこれ試算しております。これはアメリカ式生産方法を導入するにあたってどうしても避けて通れない分析です。

そこでダビドは最初に「アメリカのウォッチ・カンパニーの生産コストはどれほどのものか」という分析と試算を必要経費から割り出すべく試算をいたしました。その試算結果は以下の通りです。

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ダビド試算による1876年当時のウォルサムの支出額
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*単位は全てドル、金額は全て年額

・2名の最高責任者の給与合計...............................10,000#
・3名の事務員(多分秘書).....................................4,000#
・20名の職長の給与合計.........................................36,000#
・10名の品管責任者の給与合計..............................8,000#
・10名の事務員の給与合計......................................3,800#
・5名の副職長の給与合計.........................................5,000#
・50名のメカニックの給与合計.............................43,000#
・暖房費と動力費..................................................4,500
・保険......................................................................6,000
 (※補償額 $800,000の0.75%)
・ガス灯..................................................................3,500
・工場建物の補修、保守点検費用...........................1,000
・夜警、清掃費など...................................................5,000
・様々な時計パーツ代金(輸入品)........................4,800
・様々な時計パーツ代金(国内調達)....................2,400
・鉄鋼、真鍮、油脂類、工具機械類.........................75,000
・日給1ドルの女性従業員310名の給与合計..............94,550*
・日給0.7ドルの見習い20名の給与合計....................42,700*
・日給2.5ドルの従業員365名の給与合計.................274,500*
・払込資本1,500,000ドルに対する6%配当..............90,000
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 以上合計               $714,850           


*   *   *   *   *   *   *   *


この試算で私が一番驚いたのはアメリカン・ウォッチ・カンパニーは予想に反して非常に多額の人件費を支払っていたという事です。一般の工場従業員の給与(上の試算の*印の項目)合計は何と、

→$411,750

であります。つまり総経費$714,850の57%が人件費なのです。これに役付き、上級社員の報酬(上の試算の#印の項目)100名で$106,980を加算するとその合計は、

→$518,730

となり、実に工場総支出の72%が人件費だという事になります。現代の製造業の人件費割合は15%〜20%くらいだそうですから当時のアメリカのウォッチ会社はスイスなどに比べて先進的とは言うものの実はまだまだ労働集約型の産業だったようですね。

我々時計バカ、いや時計趣味人は「19世紀後半に現れたアメリカのウォッチ産業は機械化の進んだ先進的なものだった」という風に理解しております。それ自体は間違いではありません。だがそれは必ずしも「人件費が極小だった」という事と同義では無かったようです。これは私にとって驚きでありました。

また上記試算の最後の項目、株主への配当はダビドの推測数値です。ダビドとしては控えめな数値のつもりのようです。ダビド・レポートにはアメリカン・ウォッ チ・カンパニーの1859年以降18年間のの株式配当の一覧が載っておりますがその配当率は最低は0%から最高は60%までの大きな変動が見られるものとなっており、これなどもウォルサムの経営が波乱に富んだものであった事を窺わせます。ちなみに高配当の時期はやはり南北戦争でウォッチ需要が爆発的に増加した時期に重なっております。

ちなみにエルジンは株主への配当を常に3〜4%に抑えていたそうです。エルジンも常に多額の設備投資の必要に迫られており、株主達には低いリターンで我慢して貰っていたようです。

いずれにしても、

→約$715,000

これが一年間を通してウォルサムの工場を動かし続け、ウォッチを生産するのに必要な費用総額です。だからこれを年間ウォッチ生産総個数で割れば「ウォッチ1個あたりの生産コスト」が判ります。

(ウォルサム・ウォッチ1個あたりの平均生産コスト)
 ・年間80,000個生産で$8.93(フラン換算Fr 41.95)
 ・年間100,000個生産で$7.15(フラン換算Fr 33.60)
 ・年間120,000個生産で$5.96(フラン換算Fr 28.00)

勿論この数字はダビドの推測を交えた概算ですが重役やワーカー達の給料、外部からの資材調達費などよく調べてあって「よく情報を提供して貰えたもんだなあ」と感心します。

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ダビドがフラン併記をした理由は恐らくスイスのウォッチ産業人が自分たちのウォッチの平均単価と比較出来るようにという配慮ではないかと思われます。ちなみに当時の1ドル=4.70スイス?フランのようです。
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但し上の計算には重大なものが含まれておりません。それは営業経費とも言うべき部分です。具体的には「広告宣伝費」と「全国主要都市に設置した販売支社の維持費」の二つ。この二つが実はこの会社の利益を吹っ飛ばす程の莫大な経費を要しおりました。

(つづく)
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2009年6月24日水曜日

ダビド・レポート(8)

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ジャック・ダビドもアーネスト・フランシヨンもロンジンの工場では労働者の質的改善や労働者の意識改革をどのようにして達成するかについて頭を悩ませていたそうです。だからジャックはアメリカの労働者の質の高さ、組織の整然たる有様に余計驚いたのでありましょう。ちなみにウォルサムが社宅を完備していたという話は時々読みますがダビド・レポートからはウォルサムの社員が自費で瀟洒な家を建てる例も少なくなかったらしい事が読みとれます。

ところでこのレポートにアーロン・デニソンが1850-52年の間スイスに滞在してスイスのウォッチメイキングを研究していたとありますが、これは常識なのでしょうか?アーロンがイギリスに行ったり、後年トレモント・ウォッチの時にスイスに行ったりしたという話はよく読みますがボストン・ウォッチ・カンパニー 以前の時代に二年間もスイスに行っていたというのはダビド・レポートを読むまで知りませんでした。

ジャックはこの話を「ある人」(ダビド・レポートではあらゆる個人名が伏せられている)から「自分とアーロンの二人で行った話」として直接当事者から聞いたらしいので結構信頼性の高い話ではないかと思います。この種の臨場感ある話が出てくるところがダビド・レポートの面白いところです(私の無知だったらお許し下 さい)。

ちなみにダビド・レポートにおいて名前の伏せられている「ある人」とは恐らくネルソン・ストラットン(Nelson P. Stratton)ではないでしょうか?ボストン・ウォッチ・カンパニー設立時にアーロン・デニソンが一緒に伴っていた人物としてストラットンの名前は良く出てきます。この人はアメリカで初めて「マシン・メイド・ウォッチ」の試みを行った人として知られる時計師ピットキン(Pitkin)の4人の弟子の一人だった人です。1840年代にデニソンに気に入られて雇われて以来、長くウォッチ業界にいて基本的にデニソンと行動を共にする機会が多かったようです (1860年代まで。イギリスなど海外に出張滞在する事も多かったようです)。

ボストン・ウォッチ・カンパニー設立前にデニソンと一緒に スイスに行って勉強してその後もウォッチ業界に居続けた人、というとこのストラットン氏である可能性が非常に高い、と愚考するものであります。ジャック・ ダビドは何らかの理由でこの古老の話を聞く機会を得てこれを書き残した物ではないかと思われます。

さて、ダラダラと話が長くなっておりますが以下、ジャック・ダビドが本章の締めくくりに述べている文を一部訳します。


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現在(アメリカにおいて)稼働しているウォッチ工場が能く現状を維持し外国製品との競合を克服する事に成功したならば(彼らはそうするのに適したポジション にいるのだが)将来的にはウォッチ工場の数は増える事であろう。これは我々のようにウォッチ製造によって生計を立てている国々にとっては重要な問題である。そのような国は自分たちの製造方法を避けて通ることの出来ない方法(訳注:機械的製造のこと)へと変更すべく一刻も早く必要な一歩を踏み出さなければならない。我々がそれを行うのを待てば待つほどアメリカは製造機械を設備する時間的余裕を持つであろうし、それだけ彼らは成功を収め、確固たる地盤を築くことになろう。

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ジャック・ダビドの深刻な危機感が吐露された一節です。現在のアメリカは経済状況が足を引っ張ってウォッチ産業の生産が一時的な足踏み状態にあるが経済が回復したら物凄い勢いで奴等は伸びて来るであろう、だから我々スイスも一刻も早く新しい生産方式を取り入れないとダメなんだ、という事をジャック・ダビドは言っているのであります。実際アメリカのウォッチ産業はジャックの言うとおりその後またまた爆発的な成長を遂げることとなったのであります。

第一章の内容紹介は以上です。次は第二章「財務状況」ですがここにおいてスイス人ジャック・ダビドはアメリカン・ウォッチカンパニーに対してなかなか鋭い財務分析を行っています。「よく当時こんな資料が入手出来たものだな」と感心します。この財務分析によって炙り出されるアメリカン・ウォッチ・カンパニーの姿は実は我々がこれまで聞いて来たものと実は隔たりがあります。個人的には非常に参考になりました。次の書き込みをご覧いただければ幸いです。

(つづく)
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ダビド・レポート(7)

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次の例はユナイテッド・ステーツ・ウォッチ・カンパニー(United States Watch Company at Marion)。この会社は1876年にはちょうど破産して整理しようかというところだったそうです。不況を乗り越えられなかったという訳ですね。再建策 も講じられたものの、それに吸い取られた結構な費用は効果的に使われず株主の不利益となるばかりだったので首脳陣は希望を失って「もうやめましょうや」と いう事になったらしい。この会社の払い込んだ資本金は約100万ドル。対して破産時の負債総額は170万ドルだったそうです。現代の貨幣価値でいくらくらいに換算されるのでしょうか?1ドル8,000円で考えると負債額は136億円程になりますがいずれにしても掃討の負債額と思われます。ちなみに製造機械 類は状態が悪かったせいか二束三文の評価だったそうです。

不思議な事にダラーウォッチの元祖とも言えるオーバンデールについての言及もあります。

「オーバンデールは現在機械設備の完成を待っているところである。その目的は回転ムーブメントの竜頭巻きのスペシャル・ウォッチを造ることである。この構造は大変複雑でちょっと見た感じでは発明者が言うほどのアドバンテージがあるようには思えない」

と ジャック・ダビドは述べております。スイス人スペシャリストの目にはオーバンデールは奇妙なものに見えたのでしょうか。ちなみにオーバンデールはほぼ ジャックの予想したような結果に終わったと言って良いと思います。このオーバンデールについては「ダラー・ウォッチ列伝」にてご紹介する予定です。

ダビド・レポートで「惜しいなあ」と思ったのはフィラデルフィア・ウォッチ・カンパニーの話です。ダビド・レポートでは、

「フィラデルフィア・ウォッチ・カンパニーと呼ばれる工場はスイスの工場から製品を輸入している」

という一行で片付けられています。もう少しジャック・ダビドが調べてくれて「スイスのシャフハウゼンの工場から」とか一言書いて置いてくれたらマニアの皆さんには非常に有益な情報だったのになあ、と思いました。スイスといってもジュネーブだバレードジューだルロクルだラショードフォンだシャフハウゼンだ、と色々あるんだからスイス人の癖に「スイスから輸入している」と大ざっぱな記述で済ますのは怠慢じゃないか、と文句の一つも言いたくなります。まあジャックは そういうスタイルの商売に全然興味なかったんでしょうね。尚ワトキンスの英訳文が"factories in Switzerland"と複数形になっておりますのでフィラデルフィア・ウォッチ・カンパニーはスイスに複数の仕入れ工場があったんだろうなという感じ はします。

さて、群小の工場の話はきりがないのでここでジャック・ダビドがアメリカン・ウォッチ・カンパニー・イン・ウォルサムについて解説・描写している文を以下、ご紹介します。


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1845年、ボストンのウォッチメーカー、デニソン氏は機械的工程でウォッチ製造することによって海外の工場と競争しようというアイデアをE.ハワード氏に提案した。二人はボストンのサム・カーチスを加えてパートナーシップを結び1850年、ロクスバリーに合衆国初のウォッチ工場を設立した。この工場においておよそ1,000個ほどのムーブメントを製造した後、彼らは「ボストン・ウォッチ・カンパニー」の名のもと、新しい会社を設立したのである。

ある人物はデニソン氏と1850年から1852年にかけてジュラ山地のウォッチ製造の盛んな地域に滞在していたと述懐する。スイスの製造方法を学び、そしてその知識に基づいてアメリカにおけるウォッチ製造手順の基本をうち立てるためであったという。

この新会社はその後ボストンからおおよそ10マイル離れたマサチューセッツのウォルサムに移転し1854年には正式に法人格を得た。

1857 年、この会社は破産しその資産は競売にかけられた。アップルトン&トレーシー・カンパニーの代理人としてのR.E.ロビンス(R.E.Robbins)が 56,000ドルでこれを買い取った。これには工場周囲のかなりの土地も含まれていた。このビジネス上の資産は間もなく「ウォルサム開 発」(Waltham Improvement Company)に譲渡された。同社はチャールズ川南岸の工場に隣接する土地所有者たちで構成されている会社である。(中略)

アメリカ ン・ウォッチ・カンパニーのビルディングは今や2エーカー(約8,100平米)ほどの床面積でそこで働く900名ほどの人員を簡単に収容することが可能である。収容人数にはまだ多少の余裕がある。数多くの建物の間のスペースはエレガントなガーデンで占められており、会社の周りは美しい芝生に囲まれている。

元々はウォルサム開発(株)に属していた100エーカー(約40.5万平米)ほどの土地は小住宅やアパートに覆われている。中には従業員によって建てられたものもある。現時点では全部で300軒ほどの様々な外観や広さの家があるがそのどれもが住み心地の良いものである。家々は大体において果樹、花、芝生の生い茂った庭に囲まれており、それがこの産業区の目覚ましいばかりの繁栄を顕している。

ウォルサムの製造機器類は400,000ドルの評価額で、実際今作るとなると確実にそれくらいの金額になろう。但し(過去連綿と)これらの機械の製造に使われた支出額総計はこの数字よりもっと莫大なもので ある。土地と建造物は300,000ドルの見積。この工場の総資産は1,800,000ドルである。

動力は二基のスチーム・エンジンから供給される。一基は25馬力、もう一基は30馬力のものである。

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1876年時点でジャック・ダビドが書き残したウォルサムの来歴と史実として現在伝えられている内容とを照合するとなかなか興味深いと思いました。

また、ジャック・ダビドはアメリカン・ウォッチ・カンパニーの工場の威容、美しさ、そして社員達の社宅の美しさ、社員たちの幸福な生活ぶりが目に沁みたようです。このあたりはダビド・レポートの第三章でも繰り返されていますがこういう所にジャックはアメリカのウォッチ産業の繁栄を見て取ったものらしい。このあたり、 ジャックの冷静な筆致の中に潜んだアメリカン・ウォッチ・カンパニーに対する賛嘆と羨望の念が確実に読みとれるように思いました。

(つづく)

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ダビド・レポート(6)

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●ダビド・レポート 第1章:アメリカのウォッチ工場の数と順位
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この章は本来、アメリカのウォッチ産業について豊富な知識を持っているとは言えないスイスの業界人たちにアメリカにはどんな会社があってそしてそれらはどん な経緯を辿ってきたのかという概略を説明するために設けられた章です。なので当然、アメリカ懐中時計に親しむ人にとっては常識的な名前が羅列される結果となっておりますがその内容はジャック・ダビドというスイス人が1876年現在のアメリカにおいて調査し、聞き取りをした現在進行形の情報であるため読んで みると独特の臨場感があります(これはダビド・レポート全体を通じて言えることで、アメリカのウォッチ産業が壊滅してから後でまとめられた客観的な資料とは趣の異なる面白さがあります)。

1876年、アメリカのウォッチ産業はフィラデルフィア博覧会においてその技術力を誇示する一方、経済は先述のような不況に喘いでおりました。アメリカのウッチ産業もそのあおりを受けてアメリカン・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)ですら減産、一時的な操業停止、レイオフなどに追い込まれておりました。ジャック・ダビドはその姿をちょうど現在進行形で目の当たりにしてこれについても様々な考察を加えています。私はこれがジャックの「スイスの工場生産はどうあるべきか」という考え方に大きな影響を与えたのは確実だと思います(これについては別の章に詳し いので別途ご紹介します)。

ジャック・ダビドはこの章において「これまでに創業されたアメリカのウォッチ製造工場」としてアメリカン・ ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)、ナショナル・ウォッチ(エルジン)、スプリングフィールド(イリノイ)、ユナイテッド・ウォッチ・カンパニー(マリオン)、E.ハワードなどを初めとする都合15工場のリストを挙げております。

が、ダビドの見るところ1876年時点で「現在きちんと活動していて機能していると考えられる会社」というのはそのリストの中でも、

・アメリカン・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)
・ナショナル・ウォッチ・カンパニー(エルジン)
・スプリングフィールドウォッチ・カンパニー(イリノイ)

の僅か三つだけだったとのこと。ダビドによれば他の会社はそれぞれ創業されたばかりであったり操業停止していたり或いは既に空中分解していたり破産に瀕してしていたりしていて彼の目には「商売になっている」とは映らなかったようです。ダビドはその3社以外の選に漏れた?会社についても短い解説を行っており、 これはこれで結構面白いです。

例えばハワード(E.Howad & Company)。上記の「まともな会社リスト」からハワードが抜けているのは意外な感じがしましたがダビドによれば興味深い事にこの1876年当時、ハワードのウォッチ生産は完全な操業停止に追い込まれていたそうです。以下ダビドのレポートを引用します。

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ロクスバリーのE.ハワード&カンパニーはその製品の評価という点では多年にわたって最高のものであった。その機械設備は他の工場に比べれば少なからず非力ではあるが完璧なものであり、その工場は約150名のワークメンを雇用するに充分なスペースを持っている。だが他工場との競争により(破れ)現時点ではウォッチムーブメントの生産は完全に停止している。さらに、最近行われた工場内の人員総入れ替えは結果として製品品質の少なからぬ低下を招き、その結果としてこの会社は新たな顧客の開拓を必要とするように思える。

現在この会社は非常に好評価を得ている振り子式クロックムーブメントやタワークロックの生産にその経営資源を傾注しているところである。クロック製造設備は新式で、巨大でそしてウォッチ・ムーブメントの生産には全く関与しない部分である。

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ウォルサムやエルジン等と比較するとハワードという会社は少しく毛色の違う会社でそこには少量生産、高品質、高価、というイメージがあります。

「ハワード氏には『数量を追うのではなくむしろ高品質を目指したい』という強い意志があったがこれがために彼の時計はマーケットの主流の価格より高いものとなった」

という意味のことをハロルドも述べております。アメリカン・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)が大々的に売上を伸ばした南北戦争の時期においてさえハワードの売上は芳しからず、ハワード氏は大いに苦戦したとのこと。

ハワードという会社はその長い歴史の中で常に高品質を理念にかかげながらも商売面ではいつも廉価で中程度の品質のウォッチとの戦いにさらされ続け、その経営は決して利益に富むものでは無かったのではないかという印象です。1876年にジャック・ダビドがレポートしたような操業停止に追い込まれるような躓きは実は何度もあったのではないかと想像します(アメリカ系の時計本をいくつか当たってみましたがこの1876年の操業停止の話は出て来ませんでした)。やはりエドワードが創業社長であり且つ最大株主、という事でこういう経営を続けることが出来たのでしょうか。 また後年ハワードがキーストンに身売りした時にクロック部門を別会社として分離したという話もダビド・レポートと合わせて読むと「まあ比較的簡単に分離出来る組織 だったんだろうな」と納得が行く感じです。

(つづく)
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ダビド・レポート(5)

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さて、ダビド・レポートの続きをご紹介したく思いますがその前にジャック・ダビドがニューヨークの地を踏んだ頃のアメリカの社会はどんな雰囲気のものだったかについてのお話しを少しさせていただきます。

これまでに散々1876年当時のアメリカのウォッチ産業を持ち上げて?参りましたがしかしフィラデルフィア博覧会が開催された1876年、この年は実はアメリカも深刻な不況の最中にありました。この話はダビド・レポートにも「現在のアメリカは不況の最中にある」と明記してあります。

これに関して私は当初「まあ好景気に沸く中で一時的な不況に襲われていたんだろうな」と余り深く考えていなかったのですがふと気になって山川出版社の「アメリカ史」(紀平英作編)という本を読んでみました。そうしましたらこれはどうも生半可な不況では無かったようであります。経済は一時的に信用不安の状況にあった、とあります。調べてみて驚きました。

一体何でそんなに不況になったのか、と思って上記「アメリカ史」を繰ってしばし読んでみましたところ、これを説明するにはそれこそ1861年-1865年の 南北戦争であるとか、あるいはその後の南部再建であるとかについての話から縷々説明しなければならないという事が判りました。これは時計の話から離れすぎますし正直なところ私ごときに正確な説明が出来る事柄ではありません。

強いてウォッチ産業に関係あるところで言うと直接的には1873年の過剰な鉄道投機をきっかけとして発生した恐慌。これがその後1880年代まで続く不況の引き金を引いたもののようであります。「鉄道は儲かる」という事で投機的な思惑の資金が集中したがやがてバブルが崩壊したという事でしょうか。

この不況は当時のアメリカの労働者が政治に対して抱いていた不満とシンクロいたしましてやがて1877年、ピッツバーグにおける市場未曾有の大規模鉄道ストライキを引きおこすに至ります。前掲書「アメリカ史」にこの鉄道ストライキにおいて沢山の蒸気機関車がボコボコにされている写真が載っておりました。怒りに燃えてストライキに参加した鉄道関連労働者たちが暴れ回ったついでに汽車を燃やしたりしたのだろうと思われます。ストライキというよりは暴動と言った方が正しい騒擾ですね。実際そのストライキ鎮圧には連邦軍を投入しなければならなかったそうであります。上の写真はその騒動により破壊されてしまったピッツバーグの鉄道操車場の姿であります。汽車がボコボコにされています。

そのような時期であれば鉄道会社の運行も当然麻痺状態となり経営にも重大な障害を来したものと想像されます。それに伴いウォッチの販売に深刻な影響があったであろう事は想像に難くありません。というのもアメリカのウォッチ産業はそもそもレイルロードとの因縁が非常に深い成り立ちのものであり、最初から鉄道需要をあてにしていた会社が非常に多かったからであります(但しウォルサムとハワードの成立はこの例に当てはまりません)。ここでちょっとハロルド本の P.70から一部粗訳いたしましょう。

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ウォッチと鉄道との間に近しい関係があるのも当然だと見ることが出来る。実際問題としてJ.C.アダムスはシカゴ近辺の鉄道と(それに関連する)産業の隆盛に基づいて1864年にイリノイ州はエルジンの地にナショナル・ウォッチ・カンパニーを設立したのである。彼はその後もコーネル、イリノイ、ペオリアという三つのウォッチ会社を設立することとなった。同様の理由でイリノイ州は他にも数多のウォッチ会社を持つことになる。ロックアイランド、ロックフォード、フ リーポート、ウェスタン、オーロラ、ウェストクロックスである。

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それらの工場は全て鉄道産業の集う周辺に建てられていたそうであります。最初から鉄道需要を見込んでいたという事だと思われます。エルジンの主要創設者であるJ.C.アダムスはリバプールで五年間の時計師修行を終えていくつかの履歴を重ねながらエルジン創業直前にはシカゴ近辺の「鉄道タイムキーパー」なる仕事を任されておったそうであります。

鉄道タイムキーパー、とは一体何をやる仕事なのでしょうか?どなたかレイルロード・ウォッチに詳しい方、ご教示いただければ幸いです。ハロルド本の原文は "timekeeper for the railroads" であります。語感からは何となく機関車の適切・定時運行のコントロールにかかわる職種のような感じもありますがアダムスおじさんはそもそも時計師なのでやはり鉄道時計の整備修理をやっておったのでありましょうか?

で、アダムスおじさんはこの仕事を通じて、

「ウォッチには巨大な需要がある。ここシカゴにはチャンスがある」

と強く感じるものがあったらしい。ですが先行したボストン・ウォッチ・カンパニーなどの実例が示すとおり近代的ウォッチ工場を設立するのに必要な経費、事業が黒字化するまでに持ちこたえなければならない費用は莫大なものです。

「ウォッチ製造は絶対儲かるはずだが起業するには多額の資金が必要だ。よし、知り合いのお金持ちに片っ端から話を持ち込むとしよう」

という訳でアダムスおじさんの探し出した人物がB.W.レイモンド、シカゴ前市長にしてシカゴの鉄道(行政)の推進者。この人がアダムスおじさんの後援者となった事がその後の資金獲得に有利に働いたようです。

「アダムス君をよろしく。 B.W.レイモンド」

なんて書いた推薦状と分厚い企画書でも持ってアダムス氏はお金持ちの間を説得して回ったりしたのでしょうか?

エルジン設立にあたって、結果的にレイモンド氏のような鉄道事業及び鉄道行政に深い関わりを持つ人物が資金を出したり後援者になったりしたという事はつまり鉄道サイドの人間から見ても、

「ウォッチ製作は絶対に当たります。どうか私に出資をしてください。損はさせません」

というアダムスの提案には一定の蓋然性があり、空想夢想・絵空事の類の事だとは思われていなかったという事を示していると考えられます。

話が逸れてしまいましたがそういう成り立ちを持つ業界ですからこの不況に際して鉄道関係の需要が激減、一般需要も減少、これでアメリカのウォッチ会社は大いに困ったのであろうと私は考えます。

ハロルド本の「図16・ウォッチ会社の数」(P.50)というグラフを見ますと1850年代後半から順調に増えてきた ウォッチ会社の数が1870年代前半から1880年代前半にかけて明らかな横ばい停滞もしくは微減の傾向を見せております。新規参入もあったのですが数年と保たずに潰れる会社も多かったようです。アメリカにとっての1876年というのはそんな経済状況の中にありました。

ちなみにこの不況脱出後またアメリカのウォッチ・カンパニーは再び増殖し出すのですがジャック・ダビドは1876年時点のレポートで「景気が回復したらこいつらは絶対蠢き出すに決まっている」とこれを予言しています。

余談ですがこの1876年頃のアメリカの社会というのは滅茶苦茶なものだったんですね。フィラデルフィアにおいて高らかに建国100周年の博覧会を催しその 先進技術を全世界にアピールする一方で経済は信用不安の様相を呈しておりました。南部再建も難航しており再建州政府を憎むクー・クラックス・クラン まがいの民主党員は白昼堂々と黒人や白人共和党員に襲いかかり、南北の経済格差は莫大なものであり、同時に都市部における貧富の格差も莫大なものでありま した。

連邦政府は奴隷解放後の黒人の処遇に悩み、食い詰めて流浪した白人が都市部に流れ込んできて治安が悪化したりしました。そして毎年秋に起こる南部農民の暴動はもはや風物詩となっていて連邦軍もそのうち鎮圧に向かうのを止めてしまったほどです。当時のアメリカにおいてはこの種の社会不安に類する話は腐るほどあったようです。考えてみれば「風と共に去りぬ」の時代からまだ10年ちょっとしか経っていないのであります。アメリカは未だ激動の最中にあった訳であります。

アメリカの歴史に詳しくもないくせにおこがましいのですが、前出の「アメリカ史」を読みかじった結果、この時代はアメリカが黒人奴隷を使役して砂糖や綿花を作っていた農業国家から法整備の整った近代的工業&商業国家に生まれ変わる過程の混沌とした矛盾だらけの時期だったのだなと私なりに了解しました。世界最高度の工業技術を有し、目覚ましい機械工業化を果たし資本主義のモデル国家へと変貌しつつある一方で世界最悪級の社会矛盾を抱えその歪みに呻吟する国家。これが建国100周年を高らかに祝うアメリカのもう一つの姿であります。

ジャック・ダビドがスイスからやってきた頃のアメリカというのはそんな状況だったという事を念頭においてダビド・レポートを読むとまた違った感じで読めるように思いました。相変わらず前置きが長くて申し訳ありませんがではようやくダビド・レポートの続きに参ります。

(つづく)
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2009年6月1日月曜日

ダラー・ウォッチ列伝 (3)

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●ロスコフ・ウォッチの成功

ロスコフ・ウォッチは着想後の10年間は鳴かず飛ばず、具体的な形になる事がありませんでした。その原因としては基礎実験に多くの年月を費やしたという事もありますし、製作面では従来のスイス時計と余りにも考え方の違うものであったため、職人さんたちがそのコンセプトを理解できないどころか「そんなショボい時計なんか造れるかいバーロー!」と怒ったりして作業を拒否したりした、というような事もありました。ですが基本的に工房というものを持たないエタブリスールであったロスコフはそんな頑固な職人たちの間を回って「お願いします、こういう風に造ってください、お願いします」と懇願して回るより他は無かったようであります。

そして苦節10年、「はじめての」ロスコフ・ウォッチが完成したのは結局1867年の事でありました。そしてロスコフは大胆にもこのウォッチを1868年のパリ万博に出展いたします。恐らく万博で展示されている中で一番ショボいウォッチだった事でしょう。が、審査員の中にロスコフ・ウォッチのコンセプトと意義を理解する者がいたらしくこの時計は銅賞を受賞いたします。ちなみに誇り高きイギリス人は「何じゃこのゴミみたいな時計は」と嘲笑したという話が伝わっております。

ロスコフ・ウォッチはアメリカ式の「マシンメイド・ウォッチ」ではありませんでした。大胆な機構の簡略化などのイノベーションはありましたが基本的には人間造り、手組み立てであります。ですがスイスの人件費は安かったようで、1868年の時点でこのウォッチのアメリカにおける売価は恐らく6ドルであった、とはハロルド本の記述であります。

程なくロスコフ・ウォッチは莫大な成功への道を歩み始め、やがてロスコフ・ウォッチはスイス時計業界に莫大な利益をもたらす事になります。

余談ですがこの頃の不幸な出来事としてロスコフの死後の事、ロスコフの提唱した基準に達しない、具体的にはモジュール化した脱進機を使ってない、その脱進機も部品精度、組上精度が悪いために性能が出ていない、そういったニセモノのロスコフ・ウォッチが「ロスコフ式」として大々的に輸出された時期があり、これによって未だに「ロスコフ式は質の悪い安物」という印象が一部に残ってしまっている事が挙げられます。当時、きちんと造られたロスコフ・ウォッチはきちんとした性能を出していた"a truly good cheap watch"だったとのことです。この事はロスコフ氏の名誉のためにも付け加えておきたく思います。



●アメリカン・リアクション

ロスコフ・ウォッチはアメリカでも成功を収め始めました。スイスの工場は膨大な量のロスコフ・ウォッチをアメリカへと輸出したのです。安価なロスコフ・ウォッチが人気を博すに連れ、エルジンとウォルサムは低価格グレードのフルプレートムーブメントを市場に出しました。だがまだ高い。ブロードウェイ・グレードのモデルなどもこの例に含まれますがここに至るまでのアメリカ製低価格ウォッチは部品点数は可能な限り減らしてあったものの、完璧に新しいデザイン(設計)という訳ではありませんでした。まだまだアメリカン・ウォッチ・カンパニーなどの会社が生産するに都合の良い方法が捨てられていなかったのであります。これがスイスの低価格ウォッチに対する競争力を失わせていました。

ここでアメリカ人は「安価で性能の良いウォッチ」というものを実現するには壁がある、この壁を打ち破るには「何か根本的にイノベイティブなもの」が必要だという感覚をより強く持つことになります。スイスの低価格時計はアメリカ人に機械生産・マスプロダクションの更なる推進を決心させる要因となったのであります。

こうした安価な時計製造を目論むアメリカ人の一群の中に 、ボストンのエドワード・ロッキ(Edward Locke)とブルックリンのジョージ・メリット(George Merritt)という二人の特許斡旋人(patent solicitor)がおりました。二人は特許を取得するようなアイデアを扱う業界で仕事をしておったのですが、ある時ホプキンス(Jason R. Hopkins)の「ロータリー・ウォッチ」という発明が彼らの注意を惹きました。

ワシントンDC在住のホプキンスは短命に終わった「ワシントン・ウォッチ・カンパニー」の創設者でした。この会社は1875年頃に工作ツールやデュプレックス・エスケープメント付き鍵巻きムーブメントを50個ほど製造した会社です。この頃にホプキンスはデテント・エスケープメントと回転式ムーブメントを持った不可思議なウォッチを発明ました。彼はこれを50セントで売れるのではないかと考えていたのであります(間違いなくハロルド本原文に50セントと書いてあります)。

デテント脱進機に回転式ムーブメント、というと複雑そうで高価そうですが、実際にはこのウォッチは通常のウォッチより少ない部品で製作可能であり、それ故に安価に製造出来るポテンシャルがあったとの事であります。1867年、ホプキンスはロッキ氏と面会し試作品のウォッチを見せました。これが不幸の星のもとに生まれたオーバンデール(Auburndale)というウォッチの物語の始まりであり、同時のそれに続く数多の「ダラー・ウォッチ」たちの快進撃の序章でありました。

ダラー・ウォッチに見られるアメリカ人の「何か根本的にイノベイティブなもの」は実は今までのウォルサムやエルジンなどのウォッチ産業とは別の方向、多分にクロック業界の息のかかった方向からやって参りました。それは一体どのようなものだったのでありましょうか?

(つづく)
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ダラー・ウォッチ列伝 (2)

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●ジョルジュ・フレデリク・ロスコフ

ジョルジュ・フレデリク・ロスコフ(Georges Frederic Roskopf/1813-1889)はもともとはドイツの生まれ、16歳の時にスイスはラショードフォンにやって来て時計師修行をした後、スイスに定住した人であります。この人はずっとエタブリスールとして普通のスイス的な時計商売をしておりましたが44歳の時に突然、

「20フランで買える時計を造ったらバカ当たりするんじゃないか?」

と、いう着想に取り憑かれる事になります。ロスコフいわく「労働者のための時計(proletarian watch)」であります。そしてこの人はその後10年間というもの「労働者のための時計」の実現に奔走苦労をする事になる訳ですが、この人の伝記類を読んでみても何故突然そういう着想を得てそれまでの商売を止めてしまったのか理由が良く判りません。カットモアがその著書で、

「ロスコフはアメリカ市場の動向、最新設備による時計製造ありようについても知っていただろう」

と述べていますが、恐らくこの人はエタブリスールとしてウォッチ輸出などを手がけるうちにアメリカを含めた世界の情報を豊富に入手できるようになり、それを通して時代の空気、変化というものに対して鋭敏な感性を涵養するに至ったのではないかと想像いたします。それが「大衆の時計には莫大な需要がある」という確信のもととなった可能性があると考えております。



●ロスコフ・ウォッチの特徴

"Technique and History of the SwissWatch"
(by E. Jaque and A. Chapuis/Hamlyn Publishing/1970)

という本によればロスコフが「大衆の時計」を造るに当たって練りに練ったコンセプトは以下のようなものでした。

【ロスコフ・ウォッチの理念的コンセプト】
 (1)一般労働者に正確な時計を適価で提供する
 (2)贅沢、華美な外装仕上げはこれを廃止、その分をムーブに使う
 (3)高品質の材料のみを使用する。職人のおっさん達には高度のクラフツマン
  シップに対して報酬を与える事にする(デコレーションには金を使わない)

【ロスコフ・ウォッチの技術的コンセプト】
 (1)必要最低限にまで部品点数を大幅に減らす
 (2)脱進機構を簡略化する
 (3)ゼンマイ巻き上げ機構を高能率なものにする
 (4)輪列の絶対トルクおよびトルク伝達効率を上げる
 (5)単純にして強固なケース構造を採用する

以上のコンセプトを現実化するためにロスコフは以下のような作業を行いました。

【輪列の合理化/バーレル(香箱)の大径化】
ロスコフは大胆にもセンターホイール(2番車)を廃止しました。バーレル(香箱)で直接3番車(に相当する物)を駆動しました。これによって空いたスペースを利用してバーレルを大きくすることが可能になりました。大衆時計を目指していたロスコフ・ウォッチは価格上昇の原因となるジュエル(宝石)軸受けなど絶対使わない事を前提としていたので当然理論的に輪列の駆動抵抗が大きくなるのは明白であります。そう考えると歯車を一枚省略出来る事は巨大なメリットですしバーレルが大きくなる事は駆動抵抗の大きい輪列に対して強力な動力を供給するという意味では有利なものとなったと思われます。ちなみにロスコフ・ウオッチの輪列は図を見る限りバーレル歯車が現代で言う日の裏輪列に相当するものを直接駆動しているようです。

【組み付け式脱進機の採用】
ロスコフは脱進機を地板の上でクチャクチャ組み立てるんではなく、脱進機は脱進機でひとつの部品として事前に別工程でひとつの「ユニット」として組み上げておいて、それを出来上がってきた地板にポンとネジ止めする方法をとりました。これによって工場での生産効率がうんと向上しました。

【ピンレバー式脱進機の採用】
ピンレバー脱進機はロスコフ・ウォッチの代名詞のようになっております。そもそもピンレバー脱進機というものは1798年にルイ・ペロン(Louis Perron)というおっさんが発明したものなのだそうですが、実際問題としてはロスコフがこれに着目するまで殆ど使われる事は無かったようです。ロスコフは最初この「労働者の時計」には「まあシリンダー脱進機を使っとくか」と考えていたのですが、ピンレバー脱進機の改良に熱心だったM.J.グロスマン(Grossman)という大先生と何らかの理由で知り合い、この人に「ピンレバー使わんかいワレ」とこれを強力に勧められ、

「じゃあピンレバーで行くべ」

と、これに決めたのだそうです。どうもピンレバー式脱進機は基本性能が良いのみならず、上記の「事前ユニット化」に適した構造だった模様です。ピンレバー式の「複数の分解可能かつ比較的簡便な部品の集合体」というところがロスコフのエタブリスールとしての長年の経験と勘に訴えるところがあった模様です。ちょっと乱暴ですが、ピンレバー脱進機の動作原理はほぼ「ジュエルド・レバー」と同じ思想のものだと言えると思います。特に「デタッチャブル脱進機」という意味ではジュエルド・レバー方式と同じでシリンダー式よりフリクションは少ないのではないでしょうか。ただインパルスを受ける部分に一切宝石を使用していないので長期的な性能保持は難しい、というところが難点かと思います。

他にもケースを裏ブタなしのムクにしただとか、キーレスワインディングにしただとか、紙のダイヤルを採用しようとして失敗しただとか、ゼンマイ巻きすぎ防止のストップワーク(マルテーゼクロス)を廃止した、など色々とありますが省略します。

(つづく)
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ダラー・ウォッチ列伝 (1)

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●ダラー・ウォッチ誕生の頃の時代背景

さて、近代産業の発展興隆に伴って人々がその意識の変革を迫られることとなったものの一つが「時間」というものに対する概念でありました。産業社会とは荒っぽく言うと労働者が家の周りの畑ではなく、都市部あるいはその近郊の工場や事務所に出向いていってそこで生産作業その他に従事して仕事が終わったら家に帰っていく社会であります。そこには始業時間、労働時間、休憩時間、終業時間という概念があり、人々はこのタイムテーブルに従って能率良く働くことを要求されるのであります。また人々は時間内に工場に到着するためには通勤時間も見込まなくてはなりません。

こうした近代工業社会、産業社会に人々がその身を投じる時、それまでの生活で充分有用だった時間的指標、つまりそれは太陽の高さや教会堂の鐘の音だったりした訳ですが、それらの指標では全く精度が不足していたのです。勿論精度の高い時計というものは既に存在しておりました。ですが当時、時計は非常に高価な物でとても平均的労働者の手の届く物ではありませんでした。平均的労働者の日給が1ドルだった頃、ウォーレンという置き時計は40ドルしました。まともな懐中時計はもっと高かったでしょう。

仕方ないのでそうした人々は町を歩くときキョロキョロあたりを見回してタウンクロックで時間を確認しながら工場に急ぐ、というような事をやっていたそうであります。

そこで人々は考えました。

「ああオレも自分専用の時計が欲しいものだ。安くて正確な時計があればなあ」

これがダラー・ウォッチ誕生の素地であります。ここでちょっと上記"American Watchmaking"(以下ハロルド本)から一部訳してみましょう。


(訳開始)================================================

この国が農業国家から産業国家へとなるにつれ時間単位の行動というものが人生の重要な一部となり、人々にとってビジネスにおける一日の時間管理をする必要性はより大きなものとなった。もし産業社会の中に巻き込まれていなかったとしても既に鉄道網は国中に張り巡らされており、列車の汽笛を無視するのは無理な相談だった。良きに付け悪しきに付け、この国全体がまるで鉄道のように「時刻表(Timetable)」に則って運営され初めていた。そしてそれは人々の無意識のうちに各個人の人生の一部となっていたのである。

このため時計に対する大きな需要が形成され始めた。この需要は時計産業の規模を大きくする助けとなった。そして次に、人々は誰もが買うことの出来る時計を欲した。だが初期の時計産業はその需要に応えることが出来なかった。人々は高価ではないが信頼性が高く使いでのある時計、少なくとも数年は動き続ける時計、そして修理の可能な時計を欲していたのである。

=========================================(訳終わり)


●初期の「大衆の時計」への試み

となれば「安くて正確なウォッチを造れば莫大な量が売れるに違いない」と考えた時計産業人がいたのも当然でありましてアメリカにおいては1860年代からいくつかの会社がこの分野への参入を試みる事となりました。が、これがなかなか苦難の道でありました。値段が下がらなかったのであります。

アメリカにおける「誰もが購入可能な大衆時計」への最初のアプローチはボストン・ウォッチ・カンパニーから始まりました。「C.T.パーカー」という時計を7石の低グレードウォッチとして製作したのです。ハロルドによればこれは恐らく20ドル以下で売られていたであろうとのこと。低価格と言ってもまだまだ一般人には簡単に手を出せる金額ではありません。

ハロルド本から拾ったその後の低価格ウォッチ(inexpensive wataches)の系譜は大体以下の通り。

・P.S.バートレット(アップルトン・トレーシー&カンパニー)

・J.ワトソン(アメリカン・ウォッチ・カンパニー)
 ※ウィリアム・エラリー名も同じモデル。南北戦争による需要喚起を受けて大いに売れた

・ホーム・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)

・ブロードウェイ(ウォルサム)
 ※ハロルドによればこのモデルの売価は10ドルかそれ以下だったとのこと

以上は全て「ジュエルド・レバー・ウォッチ(jewelled lever watches)」であります。つまりウォッチの心臓部である脱進機に高信頼性のレバー式を採用してそのレバーの駆動にかかわる部分であるツメ石、振り石に宝石を採用していたのです。その他の部分にも最低限の宝石を用いていて大体7石〜11石程度のものでありました。ウォルサムはそもそも多石のきちんとしたウォッチを造っている会社でしたから低価格ウォッチといっても上級ウォッチの構造を簡略化した、そもそも素姓がいいというか、或る程度以上はコストダウンしにくい構造のものであったようです。

こうした「一般大衆の時計」のアメリカ市場においてアメリカ製品の競争相手となっていたのはスイス製シリンダー・ウォッチでした。ウォルサムの最新鋭機械設備で造られた「ブロードウェイ」が売価10ドル程度であったのに対してこれらのスイス・ウォッチは8ドルほどで売られていたのです。

ただこのスイスからやって来たシリンダー・ウォッチは相当にショボいウォッチだったようです。このあたり、ハロルド本から引用してみましょう。

(訳開始)================================================

それでもまだスイスのシリンダー・ウォッチとの競合があった。スイス時計はわずか8ドルかそこらだったのである。これらの安物スイス・ウォッチは手工業によってぐちゃぐちゃと組み立てられた物で分業制で作られていたために安かった。その工程のどの段階においても手作業でどたばたと作られたもので(the manufacturing process was performed rather hastily by hand)、結果としてその品質はバラバラ、多くの場合は低品質だった。それに伴ってそれらの時計はタイムキーパーとしては不規則に過ぎ、しばしば新品であるにも拘わらず調整・修理を必要とした(訳注:昔のソ連時計みたいですね)。全部が全部このテの物では無かったにせよ、こうした理由でスイス時計の評判というのは芳しくなかったのである。

==============================================(訳終わり)

私のようなスイス時計ファンにはにわかに受け入れがたい話ですが、これも当時のスイス・ウォッチのひとつの真実であります。スイスの汎用ウォッチの品質の悪さについては1876年当時のロンジンの技師長ジャック・ダビドも「ダビド・レポート」の中で「アメリカ製の時計に比べて我々の造る時計はこんなにもお粗末なものではないか!」と悲憤慷慨しています。

このように「スイス製はボロい」と言われつつもその安価さゆえにアメリカにおいて常に一定量のシェアを確保していたようです。

従来の形式のウォッチの場合、アメリカ式マシン・メイド・ジュエルド・ウォッチでは値段を下げるには限度がある、スイス式の手作業ぐちゃぐちゃ組み立て方式の場合は品質に問題が出る、というこのジレンマに際して、

「何か根本的にイノベイティブなものでないとウォッチというのはこれ以上値段は下がらず『真の大衆時計』の実現は難しいのではないか」

という認識が時計業界人の間で徐々に共通のものとなって来ました。そしてその「何か根本的にイノベイティブなもの」はまずスイスからやって参りました。

ロスコフ・ウォッチであります。
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デュボア・デプラ (3)

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●マーセル・デプラ悩む


DD本によればマーセル・デプラが生まれ育ったジュウ渓谷のリユーの地に電信が導入されたのは1867年、電話が導入されたのが1897年だったそうです。郵 便制度も導入も同じ頃。村の主要街路に2連のガス灯がともったのもこの頃。電力が導入されたため各家庭に水道が通った(多分ポンプで水を汲み上げて高台に 貯水出来るようになったんでしょうね)。1886年から1899年にかけては鉄道が敷設された、とあります。

こうした電信・電話・鉄道の導入がマーセル・デプラ独立の伏線の一つであります。ちなみに電線が各家庭に張り巡らされたのは1904年頃。ラジオ受信は1924年頃。

1899 年の時点でマーセルはモンティリア時計製造工場のシェフ(工場長)をやっておったのですがその頃にマーセルに対して二つの申し出がありました。一つはモラ (Morat)という村だか町だかのお役人が持ってきた話で「あんた、ウチの村の時計工場を指導して立て直してはくれんかね」というなかなか魅力的なも の。もう一つはマーセルの生地に近いらしいVieux-Moutier(多分そういう地名)にあるパウル・オーベール&サンズ(Paul Aubert & Fils)というところで複雑時計の製造を指導するというもの。

25歳の若者にこのような重要なオファーが立て続けに来るという事自体が当時のマーセルの評判の高さを窺わせます。

「モンティリア時計製造のシェフのマーセル・デプラっちゅう男は天才的な奴らしいがや」
「おお、クロノグラフの鬼だっちゅう話だがや」

くらいの評判はあったのかも知れません。

マーセル青年は随分悩んだ事でしょうが彼は結局パウル・オーベールで働く道を選びました。これは私の全くの推測ですがマーセルは恐らくパウル・オーベールの業務の指向性に興味を持ったのではないかと思います。

こ のパウル・オーベールの工場が目指していたのは「(クロノグラフ)ムーブメントの完成品製作」でした。完成品のムーブメント、つまりポン付け可能な状態に 完璧に仕上げられた製品を作る、という事です(*)。マーセル・デプラはこのパウル・オーベールの方向性に「新しい時代の空気」を感じていたのではないで しょうか。

このパウル・オーベールの方向性は非常に興味深いものです。その頃はスイスにおいても時計製造手法の近代化、機械化が叫ばれて いた時期でした。直接の契機は1876年のアメリカ建国100周年記念フィラデルフィア博覧会であります。これを視察したファーブル・ペレ、ジャック・ダ ビドらによる、

「我々スイスの時計産業は機械化されたアメリカの時計産業に比べて激しく遅れている。今のままでは我々は滅びる。我々は自らを変革する事によってしか生き残る事は出来ないのだ」

という提言をきっかけとしてスイスの時計産業は大規模かつ長期の変容時期に突入いたしました。パウル・オーベール工場の目指した方向性がジャック・ダビドらが提唱した変革の流れがジュウ渓谷において発現したものである事は疑いようの無いものと考えられます。

「これは新時代のやりがいのある仕事だ」

マーセル・デプラ青年はそのように思ったかも知れません。マーセルにはその手法を「新時代のもの」と考えるだけの理由があったと思います。


●A brief look back to the TRADITIONAL watchmaking in Switzerland

このあたりの「スイス時計産業の新時代への変容」話を始めると「スイス時計の分業の歴史」についての話になりもの凄く長くなりますし、デュボア・デプラの話 を離れてしまいます。これについては別の機会に譲るとして、現時点では手短な例として左の画像をご覧いただきたいと思います。

これは1890年代のヤーゲンセン(Jürgensen)の時計製作台帳の或る1ページでそこには"No.13884"というムーブメントの製作に必要となった工程と費用が記録されております。

こ れが19世紀末のスイス時計産業の分業制度の実態であります。分業工程だけでもざっと20以上あり、それぞれの工程ごとにそれぞれの業者または作業者に 支払った金額の明細とトータルが記録してあります。当時の時計製作がいかに手間ひまのかかるものだったかがおわかりいただけるでしょうか?

この台帳から読み取れるのはこのヤーゲンセンは、

・ムーブ外径20リーニュ
・クロノグラフ
・5ミニッツリピーター
※"Repetition V minutes"の"V"は"cinq"の略号だろうと思います。

の 超高級品だという事です。またエボーシュの納入業者がピゲ・フレール(Piguet Frere/ピゲ兄弟社)であった事も読み取れます。ピゲ・フレールとはその歴史を1770年代にまで遡る事の出来るジュウ渓谷の名門のムーブメント製造業者であります。歯車(Pignon & Roues)もフィニサージュ(Finissage/仕上げ)もアロンディサージュ(Arrondissage/面取り)もまとめてピゲ・フレールが行っ ています。

ヤーゲンセン銘でもムーブメントの実際の仕上げは優秀な外部業者に任せてしまう例があったという事をこの資料は示していると考えられます。特にクロノグラフつき5ミニッツリピーターというような複雑系の場合、餅は餅屋という事でピゲ・フレールに任せてしまうという事がままあったという事ではないでしょうか。

その他レパサージュ(Repassage/再組み立て)がエミーユ?・ペルレだとかレグラージュ(Reglage/歩度調整)がシャルル・デュボアだとか金メッキがA.ジャコーだとか、職人さん達の名前がいちいち由緒正しげで強そう?なのが実に興味深いです。

「こういう名前の奴らが作ったウォッチだもの、超高級品に決まってるじゃないか」

と私などはつい思ってしまいます(バカですね)。

ち なみにこのウォッチのエボーシュ代金590フランは異常に高価だと思います。ヤーゲンセンの他の台帳を見るとピゲ兄弟社の並品?で77フランとかちょっ と高級そうなオーベール兄弟社(Aubert Freres)ので300フランというような数字を目にします(エボーシュ代金とフィニサージュ代金、歯車類代金の合計)。それよりもうんと高価なウォッ チですからマニアが見たら陶然たる思いに捕われるような高級品だったのではないでしょうか。



お そらく台帳の超高級ウォッチはこんな感じだったのではないかと思います。ただ台帳の金メッキの項目"Dorure de mouvement"の"Dorure(金箔/金泥)"がペンで消してあって何か達筆すぎて読めない文字に書き換えてあるので金色ではなかったかも知れま せん。









ちなみにヤーゲンセンのエボーシュは左の写真みたいな感じ。いわゆるヤーゲンセンタイプと言われるもの。ウルフティースのホイールが見えます。これはオーベール兄弟社製。

このエボーシュは割と最近発見されたものです。オーベール兄弟社の末裔で郵便局に勤めるレオン・オーベール氏がご先祖様が使っていた古い家屋の修繕をしていたら色々な物の間から古くて重いブリキの箱が出てきました。

「何じゃこりゃ」

と思って埃を払って蓋を開けて中を見ると木箱があって、木箱の中から写真のエボーシュが2ダース出てきたそうです。木箱には右の写真のような"JULES JURGENSEN LOCLE(SUISSE)"という焼き印がありました。



「兄ちゃん、ヤーゲンセンさんが『注文は2ダースだった筈だが』って言うてはるで」
「何、本当か?ワシ、もう4ダース作ってもうたがな!」
「じゃあ兄ちゃん、これ次の注文まで寝かしておこか」
「そうやな、またヤーゲンセンさん、注文してくれはるやろ」

100年近く前にオーベール兄弟社でこのような会話があったのかも知れません。

ただ年代から考えてこのエボーシュの在庫はヤーゲンセンの業績不振と何か関係があった可能性があると私は考えております。オーベールのエボーシュ2ダース、24個というのは2,520フラン程度である可能性があります。理由はヤーゲンセンの仕入れ台帳でオーベール兄弟社のエボーシュで「単価105フラ ン」という記帳があるからです。もし写真のエボーシュがそれなら24個で2,520フラン相当の計算になる訳です。

こ んな高価なものをオーベールが好んで不良在庫にしたとは到底考えられません。そこには止むに止まれぬ事情があったと考えるのが自然でしょう。例えば過去納 入分についてのヤーゲンセン側からの支払いが滞ったためオーベールが次の納品を控えた、そうこうするうちにヤーゲンセンの経営が傾いた、支払いを受けられ ないオーベールの経営も傾いた、そして24個のエボーシュは倉庫の肥やしになった、という可能性もあると思います。

ちなみに完成品ヤーゲンセンはこんな感じ。すばらしいの一言です。以上は"Horlogers et montres exceptionnels de la Vallee de Joux"という本に載っていた写真です。

※この本はフランス語で書かれているので内容がよくわかりません。もっとフランス語を勉強して内容を理解したいものだと思いつつフランス語の勉強をしない日々が既に数年間続いております。死ぬまでには読了したいものです。




●マーセル・デプラ独立す

さて、「手短に」と言いつつものすごく脱線しました。申し上げたかったのはスイスの伝統的分業ウォッチ製作はこんなにもコンプリケイテッドなものだったとい う事です。この方法は超高級ウォッチを製作するには最適の方法だったようです。実際この時代のヤーゲンセン、メイランなどのウォッチには溜め息の出るよう な逸品が沢山あります。

ですがこの方法は「ウォッチの更なる普及」という時代の要請に適合するものではありませんでした。高価すぎたので あります。これらの方法でウォッチ製作を していた工房はその後、ほとんど全てが姿を消しました。マーセル・デプラが独立を果たした時代はちょうどそうした旧世代の高級ウォッチ工房が斃れていく時 代でもありました。

「あの方法ではオレの未来は無い」

マーセルがそのように新時代の空気を感じ取っていてパウル・オーベールに身を投じたのだとしても不思議は無いと私は思います。

ところが皮肉な事にこのオーベールの試みは全く成功しなかったとDD本にはあります。マーセルと経営者との間にも意見の相違があったらしい。ただマーセルはオーベールの目指した方向そのものについては確信を持っていたようです。

「こんなんならオレは独立して自分ひとりでやってみせるよ」

という事で生地リユーに戻ってマーセルは自分の会社を興したのでした。正式な会社名は、

"Marcel Depraz, Societe individuelle"

敢えて日本語にすれば「マーセル・デプラ個人会社」というところでしょうか。マーセル・デプラの工場、と呼ぶには余りにささやかなアトリエは何かの部品製作 所跡を転用した物でした。全然立派な場所では在りませんでしたがとにかく1901年1月1日、マーセルはここでウォッチ製作を始めたのでありました。

(つづく)


※上の写真は1901年の独立時に工房前で撮影されたもの。マーセルとその妻エリーゼ(Elise)。マーセルは27歳とは思えない風格。
*La maison Aubert & Fils fait des tentatives pour introduire dans sa fabrication la terminaison complete du produit.
(あちこちの文脈を辿るにこの『完成品』とは『クロノグラフムーブメント』および『リピーターウォッチムーブメント』の完成品という意味のようで通常の三針時計のことは除外している模様)

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