2009年8月15日土曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(4)

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●ジョン・アーノルド、クロノメーターに心を騒がす

超精密な指輪時計をつくっていた男がクロノメーターの製作を手がけるというのは随分な方向転換のように思えます。ですが彼は1770年を境に王宮的な時計製作の道を全く放棄してしまったかのように見えます。そして突然クロノメーター・メーカーとなり、以後1780年代中盤まで全身全霊をかけてクロノメーターの開発に打ち込む事となります。一体何がアーノルドにそのような方向転換をさせたのでしょうか?

ジョン・アーノルドの経歴を見ていて不思議に思うのは「ワークショップを構えた1762年から1768年までの6年間、アーノルドは一体何をしていたんだろう?」という事です。この間、1764年の指輪時計以外の作品の話は一切出て来ません。最初の2年間は指輪時計に没頭していたとしても、その後の4年間はジョン・アーノルド個人として時計らしい時計を作った形跡が全く無いのです。"Jn. Arnold London"と刻印されたウォッチが世の中に登場するのは1768年以降の事であります。またクロノメーターのプロトタイプが完成したのは1768〜1769年と考えられています(グールド説)。その間アーノルドは一体何をしていたのか?

恐らくアーノルドは"Finisher"をやっていたのだと思います。"Finisher"というのはコーディネーター(スイスでいうエタブリスール)の持ち込むラフ・ムーブメントを仕上げて納める仕事です。それに加えて時計修理や時計師仲間の下請け業務も行っていた事でしょう。どれも食べて行く為に必要で大事な仕事です。そして時折王宮に出かけてジョージ3世の時計の面倒を見たり、ボタンを作ったりもしていたのでしょう。ただこれらは超有能なアーノルドにしてみれば難易度の低い、言わば退屈な仕事だったのではないでしょうか。

そんな生活をしながらもアーノルドがある頃から自由な時間の大半を使って脱進機の基礎研究など、時計師としての根幹的な技術研鑽に熱中していたのは疑いが無いと私は考えています。何故ならアーノルドのクロノメーターは最初から優秀だったからです。

アーノルドの製作したクロノメーターはキャプテン・クックの船団に載せた3基を除いて全て最初から高性能を発揮しました。クロノメーター・メーカーとして名乗りを上げる前に集中的な基礎研究、研鑽の積み重ねが為されていたと考えるしかありません。

アーノルドをそうした基礎研究、研鑽に駆り立てたものは時代の空気、あるいは時代の熱気では無かったかと思います。ちょうどこの頃は「ロンジチュード・プロブレム」が解決の端緒につきかけた頃で、世の人々は大きな関心をもって事態の成り行きを見守っていました。

※いくつかの本を読むにこの頃、ロンジチュード問題は知識階級の人々を中心にちょっとした熱狂状態にあったものと私は考えています。

「オレ抜きでこの話を進めてもらっては困る」

とまで思ったかどうかは判りませんが、アーノルドは腕に覚えのある時計師としてこの問題に関心を持たない訳にはいかなかったのでしょう。

アーノルドが独立したワークショップを持ちながらも自分の名前の入ったウォッチを一切製作しなかった6年間、ロンドンでは高性能なジョン・ハリソンのクロノメーターNo.4(通称H4)が何かと世間の耳目を集めていました。

ここでアーノルドが工房を構えてからクロノメーター・メーカーとして名乗りを上げるまでの8年間にクロノメーターの世界で起きた −そして同時にアーノルドの心を騒がせたであろう− 目を惹く出来事を見てみましょう。

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・1762年
ジョン・ハリソンの息子ウィリアムがH4を携えてジャマイカからポーツマスに帰還。途中嵐に見舞われたため航海は往復で5ヶ月にわたるものとなったがその間のH4の成績はオーバーオールで「113秒の遅れ」というものだった(往路については僅か5秒の遅れだった)。

・1764年
H4が再び実航海テストに供される。イングランド〜バルバドス〜イングランドという往復経路の全112日間の旅程におけるH4の成績は「166秒の進み」というものだった。振動、温度変化とも条件の厳しい大洋航海中の船上にありながらこのウォッチは1日に1.48秒しか狂っていない計算になる。だがロンジチュード委員会はそれでも賞金の支払いを拒否したばかりか今度はH4の構造と製作方法をロンジチュード委員会に公開する事をハリソンに迫った(交渉不成立)。

・1765年
この年、ロンジチュード委員会はH4監査のための小委員会を設けてハリソンにH4の内部構造公開を6日間に亘って行わせた。その上でネヴィル・マスケリンはラーカム・ケンドールに構造公開されたH4の複製製作を命じる。天文学者マスケリンのハリソンへの意地悪ぶりは芸術的。

・1766年
マスケリン、ハリソンの許からH1、H2、H3を持ち去る。非常に悪辣。

・1769年
ケンドール、H4の複製を完成させる。高性能を発揮。
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※画像はH4のダイヤル側とムーブメント側。ハリソンはジョン・ジェフリーズのウォッチからスモールサイズ・クロノメーターH4の着想を得たと言われる(と言っても直径は13cmほどあるとのこと)。








「112日の航海で僅か166秒の狂いだって?」

ジョン・アーノルドは1764年初頭にもたらされたのそのニュースに重大な関心を寄せたに違いありません。

「ハリソン氏のH4はそこまでの精度を達成しているのか」

ジョン・アーノルドにとってそれは非常な驚きだった事でしょう。その時、アーノルドはちょうどジョージ3世に献呈する指輪時計の最終仕上げにかかっている頃でした。

122日で166秒。

この数字は指輪時計の仕上げにかかっているアーノルドの頭に度々去来した事と思われます。この精度を振動条件も温度条件も劣悪な船上で達成したという事は驚き以外の何者でもありません(据え置き型クロックであれば当時でもJohn Sheltonあたりの時計師なら達成可能な精度だったと言いますが、船上時計としては驚異的な精度です)。

「ではハリソン氏が人類で初めてロンジチュード・プロブレムを解決した人物という事になるのか」

アーノルドはそんな事を思ったかも知れません。

(つづく)
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