●ロスコフ・ウォッチの成功
ロスコフ・ウォッチは着想後の10年間は鳴かず飛ばず、具体的な形になる事がありませんでした。その原因としては基礎実験に多くの年月を費やしたという事もありますし、製作面では従来のスイス時計と余りにも考え方の違うものであったため、職人さんたちがそのコンセプトを理解できないどころか「そんなショボい時計なんか造れるかいバーロー!」と怒ったりして作業を拒否したりした、というような事もありました。ですが基本的に工房というものを持たないエタブリスールであったロスコフはそんな頑固な職人たちの間を回って「お願いします、こういう風に造ってください、お願いします」と懇願して回るより他は無かったようであります。そして苦節10年、「はじめての」ロスコフ・ウォッチが完成したのは結局1867年の事でありました。そしてロスコフは大胆にもこのウォッチを1868年のパリ万博に出展いたします。恐らく万博で展示されている中で一番ショボいウォッチだった事でしょう。が、審査員の中にロスコフ・ウォッチのコンセプトと意義を理解する者がいたらしくこの時計は銅賞を受賞いたします。ちなみに誇り高きイギリス人は「何じゃこのゴミみたいな時計は」と嘲笑したという話が伝わっております。
ロスコフ・ウォッチはアメリカ式の「マシンメイド・ウォッチ」ではありませんでした。大胆な機構の簡略化などのイノベーションはありましたが基本的には人間造り、手組み立てであります。ですがスイスの人件費は安かったようで、1868年の時点でこのウォッチのアメリカにおける売価は恐らく6ドルであった、とはハロルド本の記述であります。
程なくロスコフ・ウォッチは莫大な成功への道を歩み始め、やがてロスコフ・ウォッチはスイス時計業界に莫大な利益をもたらす事になります。
余談ですがこの頃の不幸な出来事としてロスコフの死後の事、ロスコフの提唱した基準に達しない、具体的にはモジュール化した脱進機を使ってない、その脱進機も部品精度、組上精度が悪いために性能が出ていない、そういったニセモノのロスコフ・ウォッチが「ロスコフ式」として大々的に輸出された時期があり、これによって未だに「ロスコフ式は質の悪い安物」という印象が一部に残ってしまっている事が挙げられます。当時、きちんと造られたロスコフ・ウォッチはきちんとした性能を出していた"a truly good cheap watch"だったとのことです。この事はロスコフ氏の名誉のためにも付け加えておきたく思います。
●アメリカン・リアクション
ロスコフ・ウォッチはアメリカでも成功を収め始めました。スイスの工場は膨大な量のロスコフ・ウォッチをアメリカへと輸出したのです。安価なロスコフ・ウォッチが人気を博すに連れ、エルジンとウォルサムは低価格グレードのフルプレートムーブメントを市場に出しました。だがまだ高い。ブロードウェイ・グレードのモデルなどもこの例に含まれますがここに至るまでのアメリカ製低価格ウォッチは部品点数は可能な限り減らしてあったものの、完璧に新しいデザイン(設計)という訳ではありませんでした。まだまだアメリカン・ウォッチ・カンパニーなどの会社が生産するに都合の良い方法が捨てられていなかったのであります。これがスイスの低価格ウォッチに対する競争力を失わせていました。
ここでアメリカ人は「安価で性能の良いウォッチ」というものを実現するには壁がある、この壁を打ち破るには「何か根本的にイノベイティブなもの」が必要だという感覚をより強く持つことになります。スイスの低価格時計はアメリカ人に機械生産・マスプロダクションの更なる推進を決心させる要因となったのであります。
こうした安価な時計製造を目論むアメリカ人の一群の中に 、ボストンのエドワード・ロッキ(Edward Locke)とブルックリンのジョージ・メリット(George Merritt)という二人の特許斡旋人(patent solicitor)がおりました。二人は特許を取得するようなアイデアを扱う業界で仕事をしておったのですが、ある時ホプキンス(Jason R. Hopkins)の「ロータリー・ウォッチ」という発明が彼らの注意を惹きました。
ワシントンDC在住のホプキンスは短命に終わった「ワシントン・ウォッチ・カンパニー」の創設者でした。この会社は1875年頃に工作ツールやデュプレックス・エスケープメント付き鍵巻きムーブメントを50個ほど製造した会社です。この頃にホプキンスはデテント・エスケープメントと回転式ムーブメントを持った不可思議なウォッチを発明ました。彼はこれを50セントで売れるのではないかと考えていたのであります(間違いなくハロルド本原文に50セントと書いてあります)。
デテント脱進機に回転式ムーブメント、というと複雑そうで高価そうですが、実際にはこのウォッチは通常のウォッチより少ない部品で製作可能であり、それ故に安価に製造出来るポテンシャルがあったとの事であります。1867年、ホプキンスはロッキ氏と面会し試作品のウォッチを見せました。これが不幸の星のもとに生まれたオーバンデール(Auburndale)というウォッチの物語の始まりであり、同時のそれに続く数多の「ダラー・ウォッチ」たちの快進撃の序章でありました。
ダラー・ウォッチに見られるアメリカ人の「何か根本的にイノベイティブなもの」は実は今までのウォルサムやエルジンなどのウォッチ産業とは別の方向、多分にクロック業界の息のかかった方向からやって参りました。それは一体どのようなものだったのでありましょうか?
(つづく)
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