2009年6月30日火曜日

ダビド・レポート(12)

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ここからダビド・レポート第2章は意外な結論に向かいます。ダビドが得た恐ろしい答えは以下の通りです(ダビド・レポートP.18)。

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これらの会社(ウォルサム、エルジン、スプリングフィールド)が値段を下げようとして行っている努力は通常はお互いを叩き合うために行っているとは考えられていない(実際にはそれと同じ結果になっているのだが)。

これらの努力は公然と輸入ウォッチに向けられているのである。アメリカ人はスイス製ウォッチを駆逐した上での市場独占を欲している。彼らは長期間に亘って輸入を減退させるために必要な犠牲を払う事が出来るし、またそうするつもりだと暗に認めている。
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最後の一行はワトキンスの英訳文では"They imply that they can make the necessary sacrifices to discourage importation for a long time, and they will do so"となっています。想像するに、

「何だってまたあなた方アメリカ人は同国人同士で安売り競争をして叩き合ってるんですか?」

というダビドの質問に対して、

「いや、それは違うな。つまり君たちの安い時計が邪魔なのさ。君たちさえいなくなれば市場は我々の独占だ。そうなれば値段なんてあとから好きにコントロール出 来るだろう?だから我々はアメリカ人同士で叩き合っているんじゃなくて、君たちスイスの時計からこの国におけるチャンスを奪い去ろうとしていると言う訳だね」

と答えた業界人がいたんでしょうか。

これにはダビドも呆然としたようで、

「そんな馬鹿な。これだけの大会社が採算ギリギリのところで株主への配当もおろそかにしたままで我々スイス・ウォッチが壊滅するまで安売り競争を仕掛けられる ものか!第一彼らの生産量はまだ年間250,000個にしか過ぎず、それではこのアメリカ一国全土の需要を賄うことも出来ないじゃないか」

とこれは逆にファイトを燃やす結果となったようです(但しアメリカウォッチ業界の生産キャパシティはその後数年でダビドの予想以上に伸びましたが)。

かくしてダビド・レポート第2章は闘志に燃えたダビド氏の、

「アメリカの工場はこのゴールに到達する前に値段を上げるのを余儀なくされるだろう。そして輸入品はこの価格上昇から直ちに利益を得るであろう。そして、輸入品を駆逐した後にアメリカ合衆国の工場が市場をコントロールして価格を上げる事が可能となる期間、つまりこの錯覚に基づく目標の追求に費やされた数多の犠 牲の代償として得られる期間は余りに短いものとなろう」

という言葉で締めくくられております。ここでダビド氏ははっきりとアメリカ・ウォッチ産業の構造的弱点を発見し、アメリカ市場に付け入る隙を見出した、というところでありましょうか。

ところで、私がこれまで読んだダビド・レポート以外の時計本で、

「ウォルサム及びエルジンが行った価格競争の真の目的はスイスウォッチをアメリカ市場から駆逐する事にあった。それを成し遂げて市場を独占した後に彼らはウォッチの価格を引き上げて大儲けするつもりだったのだ」

という記述を読んだ記憶は無いように思います。だからダビド・レポートの話には少々荒唐無稽な違和感を覚えないでもありません。でもジャック・ダビドがこんな事で嘘を書く理由も無いのでやはり事実なんでしょうね。

時計の歴史本では語られていなくとも1876年当時、誰かダビドに向かって「君たちにはこの市場から出ていって欲しいんだ」と言ったアメリカ人がいて、ダビ ドはそれに対して猛然と闘争心を燃やした、という事が事実としてあった。これもダビド・レポートの持つ臨場感だと思います。歴史本は過去形ですがダビド・ レポートは現在進行形なのです。

ちなみに、このあたりのダビドの意気軒昂な反応、闘争心は頼もしく思うのですが、同時に何だか可笑しくもあります。というのもダビドはアメリカ時計人を指して「だが彼らは年間250,000個のウォッチしか作れないではないか」と言っていますが、同時期のロンジンがその10分 の1の生産量もあったかどうか(1874年で年産15,000個)。しかもそのロンジンという名のスイスのショボい工場(失礼)は累積赤字で息も絶え絶えの状態なのであります。「お見それしました」と尻尾巻いて国に帰って転職先を探すのが正常な神経だと思うのですがそれを、

「オレたちは絶対アメリカの産業と戦える。絶対だ!」

と考えるのですからやはり一国の産業を救うような人はこれくらい気宇壮大じゃないとダメなんだな、と感心いたしました。ジャック・ダビド、やはり大物であります。


*   *   *   *   *   *   *   *

第2章のご紹介は以上です。なるべく簡潔に手短に、と思っていたのですが無理でした。

次はいよいよ第3章「内部組織」です。これも長くなるでしょう。ですがこのダビド・レポート第3章ほどアメリカのウォッチ産業の組織の運営のされ方やワークメンたちの働きぶり、ワークメンたちの慎ましくも幸福な暮らしぶりなどを詳しく解説した文章は他に無いのではないかと思います。アメリカ人たちはウォッチを造るのに忙しくて自分たちがいかにしてウォッチを造っていたか、いかにして品質管理をしていたか、いかにして作業を行っていたかについては余り書き残す機会が無かったようです。

それをたまたま1876年にスパイ行為?を働きに来たジャック・ダビドというスイス人
がその詳細を書きとどめました。ジャック・ダビドは期せずして後に滅ぶ事となるアメリカ・ウォッチ産業の繁栄の証言者となった訳であります。

(つづく)
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ダビド・レポート(11)

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以上で当時のアメリカン・ウォッチ・カンパニーの「支出」の見当がつきました。それでは「収入」の方は一体どうなっているのでしょうか?アメリカン・ ウォッチ・カンパニーの収入の推定にあたってダビドは「年間ウォッチ生産個数から売上を予想する」という方法を採りました。その根拠は同社の「日産360 個」というウォッチ生産能力です。この頃のウォルサムは年間305日稼働でしたから、

→360個×305日=109,800個/年

という計算になります。ここでダビドはウォルサムの年間ウォッチ製造数を100,000個と想定します。問題は単価の違う各モデルの生産数分布です。10万個のウォッチの内訳はどのようなものか?

ダビドはそれを市場の実感、各種聞き取りから以下のような内訳であろうと仮定しました。

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ダビドによる1876年のウォルサム各モデル生産数分布推計
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・Ameican Watch Company............................1,000個
・Appleton & Tracy Co.....................................3,000個
・Waltham Watch Co..............................14,000個
・P.S. Bartlett...........................................16,000個
・W.Ellery................................................16,000個
・Home Watch........................................25,000個
・Broadway.............................................25,000個


この各モデルの数量に工場出荷単価をかけて積算すればウォルサムの年間売上高がつかめる筈です。レポート中の細かい数字は省略しますがダビドが掴んでいた各モデルの工場出荷額から計算した上記の100,000ピースのウォッチの総売上がいくらになったかというと何と、

→$795,300/年

にしかならないのであります。これはいささか少ない額であります。というのも工場の年間生産コストは前述の通り、

→$715,000/年

でありますから工場生産における利益は$80,300という事になります。これでは前述の広告宣伝や支社維持などの営業経費が全く出ません。営業経費を含めた総支出で考えますと、

→795,300-997,500=マイナス202,200ドル

話にならない大赤字であります。

とは言っても現にウォルサムは赤字を出さずに営業しているのですからこれはダビド
の計算の何か、経費の計算か収入の計算か総生産数の見積のどれかが間違っているの
でしょう。或いは仕切価格を間違えて計算しているのかも知れません。また本社と支社(agency)との間で複雑な金銭のやり取りがあったかも知れません。

例えば各モデル別生産数分布を単価の高いものが沢山売れていると仮定すればすぐ何万ドルもの差が出る、とダビドも述べています。またフル稼働すれば生産個数も年間約110,000個と約10%増の生産数になりますので単純計算だと売上も10%増となります。

この計算についてはダビドもおかしな計算になっているとは認めつつも自分の収集した情報のどこに間違いがあったか良く判らない様子です。彼によれば「どの数字もかなりリアリティがある数字なのだが」という事であります。


私はこの130年も前にスイス人が異国のアメリカで行ったスパイ行為?として行った計算が結果として10〜20%間違っていたからといって特に奇異とするにあたらないと考えています。

そ れよりもここで注目すべきは「ダビドはどこを間違ったのか」という事ではなく、アメリカのウォッチ会社の経営は意外にも高コスト体質でそれほど利益に富む物では無かった、という事ではないでしょうか。例えば売上高が10%程度減少すると途端に大幅赤字に転落して大騒ぎするような経営だった、という事は正常な時でも営業利益はほんの数%しかない会社だったという事になります。意外であります。ウォルサムやエルジンはもっとバンバン儲けていたのではな いかと思っておりました。勿論1876年が不況の年だったという事も忘れてはなりませんが(実際1878年頃からウォッチ生産はバクハツ的に伸びます)。

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個人的にはこの薄利体質が数十年後のアメリカウォッチ産業衰退の原因の一つになったと考えております。競争に疲弊して次世代への設備投資をする事が出来なかったのではないかという感触を持っております。この事についてはまた機会をあらためたいと思います。
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このあたりのコスト構造はダビドも興味深く思った事でしょうがその一方でダビドは、

「何だってまたアメリカの時計人はこんなに躍起になってウォッチを安くしようとするのか?」

という疑問を抱いたようです。これだけ個数を沢山造っているのだから単価にほん
の少し上乗せするだけでもっと利益が上がる筈ではありませんか。

(つづく)

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ダビド・レポート(10)

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例えば広告宣伝費。1876年当時のエルジンやウォルサムは広告宣伝に類する費用として以下のような支出をしていたそうです。

・各種ジャーナル誌への広告掲載料
・各種年鑑などへの広告掲載料
・問屋や小売店に配布するカタログ類製作費用
・アドレスカード製作費用
 ※ワトキンスの英訳文が"address cards"ですが何の事か良く判りません。店名入りチラシのようなものかノベルティのようなものでしょうか?

・錫合金製品質保証メダルの製作費
・販売その他に有用な事をしてくれた人々への贈呈用ウォッチ現物
 ※有名人などへの贈呈分も含まれているのではないかと思います

ダビドはウォルサムやエルジンがありとあらゆるジャーナル類に広告宣伝を掲載していると聞いて「ヨーロッパでは絶対あり得ない事だ」と驚いています。当時のヨーロッパにおけるウォッチの広告というのは業界誌紙にチョロッと掲載される程度のものだったそうです。

ところが冗談ではなくアメリカにおいては一般人の読む全てのジャーナル類においてこの2社の広告を容易に見つけることが出来たそうです。ワトキンス英訳文 が"magazines"ではなく"journals"ですから現代で言う"TIME"や"LIFE"みたいなお堅い雑誌の全てという事ではないかと思います。日本で言えば文藝春秋やダイヤモンドやプレジデントなどのおっさん雑誌にいちいちセイコーやザ・シチズンの広告が掲載されている、といった感じで しょうか。そして「週刊大衆」とか「実話時代」とか「週刊エロトピア」とか「ヤングオート」とか「少年ジャンプ」などは当然広告対象から除外されていたでしょう。冗談です。

アメリカにおける絨毯爆撃のような広告の効果が絶大であると見て取ったダビドはレポートの中で、

「アメリカの工場を褒めそやしている感のある我々のこのレポートが間違ってもアメリカのウォッチ宣伝に挑発的に使われる事が無いよう充分注意しなければならない」

と大真面目に心配していてこれにはちょっと笑いました。でも確かに、

「スイス人もびっくり!アメリカン・ウォッチの実力の前にスイス人顔色無し!」

みたいな見出しでうっかり流出したダビド・レポートが広告で引用されたりしたらスイス人にとっては不名誉な事この上ない、と言うか慄然とする事態ですね。そう言った意味でもダビド・レポートは断じて秘匿されねばなりません。

ダビドによれば「エルジンが1874年にこの種の広告宣伝物に費やした費用は15,000ドルである。ならば恐らくウォルサムも殆ど同額であろう」とのこと。という事はこれで経費総額は、

→715,000+15,000=730,000ドル

となりました。


それではもう一つの主要な営業経費、販売支社の維持はいかほどのものだったのでしょうか。これが実は広告宣伝費など問題にならない程の莫大な費用を要したようです。当時ウォルサムはボストン、ニューヨーク、ロンドンに、エルジンはニューヨーク、シカゴ、ロンドンとペテルスブルグに支社を持っておったそうですがダビドによれば、

「これらは超絶豪華な会社で製品のコストを目に見えて上昇させているに違いない」

のだそうです。ダビドの聞いたところではウォルサムのニューヨーク支社の年間経費は$100,000、ボストン支社で$50,000なのだそうです。ロンドンは25,000 フラン(大体$117,500くらいか)。ウォルサムの工場の年間生産コストが$715,000である事を考えると支社維持というのはまた随分コストがか かるもんなんだなという印象です。ニューヨークとボストンとロンドンの支社の経費をここで加算すると、

→730,000+267,500=997,500ドル

となります。つまり1876年当時のアメリカン・ウォッチ・カンパニーの年間総支出額は100万ドル近くあったと考えられます。スイスはサンティミエのロンジンという名のショボい工場(失礼)からやって来たジャック・ダビドにとっては天文学的な金額に思えた事でしょう。

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尚 この「支社」のワトキンス英訳原文は"agencies"です。ただ、原文の文脈を読んでいくと代理店というよりは直営の販社や支社のような形態に思えましたのでメールでワトキンス氏に尋ねてみました。そうしましたら「agenciesというのは曖昧な言葉だけどこのエージェンシーというのはウォルサムの 支出によって設立され、準備されたものです。但し彼らは彼ら自身の経営マネージメントをする自由を与えられていて、実際にウォルサムの工場から一旦ウォッチを買って、代理店みたいにして売るという商売形式でした。このエージェンシーは卸もしたしリテール販売もしました」との事でした。迷いましたが今回は敢えて「支社」と訳しました。
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(つづく)
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ダビド・レポート(9)

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さて、ダビド・レポート第2章「諸工場の財務状態(Financial Conditions)」は数字が多いため一見地味な内容に思えます。ですがこの数字を読んでみると非常に面白いのです。ジャック・ダビドの厳しい?財務分析を通じて現れる当時のアメリカン・ウォッチ・カンパニーやエルジンの経営状況というものが非常に興味深く感ぜられます。以下、長くなりますがお時間のある方は是非お付き合い下さい。

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さて、この第2章においてダビドは 「アメリカ式生産というのはどれ程の資本を必要とするのか、経営は成り立つのか、そしてそれはどれほどの利益を生むのか」という疑問に対する回答を導くべくアメリカン・ウォッチ・カンパニーをサンプルとしてその経営内容についてあれこれ試算しております。これはアメリカ式生産方法を導入するにあたってどうしても避けて通れない分析です。

そこでダビドは最初に「アメリカのウォッチ・カンパニーの生産コストはどれほどのものか」という分析と試算を必要経費から割り出すべく試算をいたしました。その試算結果は以下の通りです。

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ダビド試算による1876年当時のウォルサムの支出額
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*単位は全てドル、金額は全て年額

・2名の最高責任者の給与合計...............................10,000#
・3名の事務員(多分秘書).....................................4,000#
・20名の職長の給与合計.........................................36,000#
・10名の品管責任者の給与合計..............................8,000#
・10名の事務員の給与合計......................................3,800#
・5名の副職長の給与合計.........................................5,000#
・50名のメカニックの給与合計.............................43,000#
・暖房費と動力費..................................................4,500
・保険......................................................................6,000
 (※補償額 $800,000の0.75%)
・ガス灯..................................................................3,500
・工場建物の補修、保守点検費用...........................1,000
・夜警、清掃費など...................................................5,000
・様々な時計パーツ代金(輸入品)........................4,800
・様々な時計パーツ代金(国内調達)....................2,400
・鉄鋼、真鍮、油脂類、工具機械類.........................75,000
・日給1ドルの女性従業員310名の給与合計..............94,550*
・日給0.7ドルの見習い20名の給与合計....................42,700*
・日給2.5ドルの従業員365名の給与合計.................274,500*
・払込資本1,500,000ドルに対する6%配当..............90,000
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 以上合計               $714,850           


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この試算で私が一番驚いたのはアメリカン・ウォッチ・カンパニーは予想に反して非常に多額の人件費を支払っていたという事です。一般の工場従業員の給与(上の試算の*印の項目)合計は何と、

→$411,750

であります。つまり総経費$714,850の57%が人件費なのです。これに役付き、上級社員の報酬(上の試算の#印の項目)100名で$106,980を加算するとその合計は、

→$518,730

となり、実に工場総支出の72%が人件費だという事になります。現代の製造業の人件費割合は15%〜20%くらいだそうですから当時のアメリカのウォッチ会社はスイスなどに比べて先進的とは言うものの実はまだまだ労働集約型の産業だったようですね。

我々時計バカ、いや時計趣味人は「19世紀後半に現れたアメリカのウォッチ産業は機械化の進んだ先進的なものだった」という風に理解しております。それ自体は間違いではありません。だがそれは必ずしも「人件費が極小だった」という事と同義では無かったようです。これは私にとって驚きでありました。

また上記試算の最後の項目、株主への配当はダビドの推測数値です。ダビドとしては控えめな数値のつもりのようです。ダビド・レポートにはアメリカン・ウォッ チ・カンパニーの1859年以降18年間のの株式配当の一覧が載っておりますがその配当率は最低は0%から最高は60%までの大きな変動が見られるものとなっており、これなどもウォルサムの経営が波乱に富んだものであった事を窺わせます。ちなみに高配当の時期はやはり南北戦争でウォッチ需要が爆発的に増加した時期に重なっております。

ちなみにエルジンは株主への配当を常に3〜4%に抑えていたそうです。エルジンも常に多額の設備投資の必要に迫られており、株主達には低いリターンで我慢して貰っていたようです。

いずれにしても、

→約$715,000

これが一年間を通してウォルサムの工場を動かし続け、ウォッチを生産するのに必要な費用総額です。だからこれを年間ウォッチ生産総個数で割れば「ウォッチ1個あたりの生産コスト」が判ります。

(ウォルサム・ウォッチ1個あたりの平均生産コスト)
 ・年間80,000個生産で$8.93(フラン換算Fr 41.95)
 ・年間100,000個生産で$7.15(フラン換算Fr 33.60)
 ・年間120,000個生産で$5.96(フラン換算Fr 28.00)

勿論この数字はダビドの推測を交えた概算ですが重役やワーカー達の給料、外部からの資材調達費などよく調べてあって「よく情報を提供して貰えたもんだなあ」と感心します。

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ダビドがフラン併記をした理由は恐らくスイスのウォッチ産業人が自分たちのウォッチの平均単価と比較出来るようにという配慮ではないかと思われます。ちなみに当時の1ドル=4.70スイス?フランのようです。
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但し上の計算には重大なものが含まれておりません。それは営業経費とも言うべき部分です。具体的には「広告宣伝費」と「全国主要都市に設置した販売支社の維持費」の二つ。この二つが実はこの会社の利益を吹っ飛ばす程の莫大な経費を要しおりました。

(つづく)
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2009年6月24日水曜日

ダビド・レポート(8)

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ジャック・ダビドもアーネスト・フランシヨンもロンジンの工場では労働者の質的改善や労働者の意識改革をどのようにして達成するかについて頭を悩ませていたそうです。だからジャックはアメリカの労働者の質の高さ、組織の整然たる有様に余計驚いたのでありましょう。ちなみにウォルサムが社宅を完備していたという話は時々読みますがダビド・レポートからはウォルサムの社員が自費で瀟洒な家を建てる例も少なくなかったらしい事が読みとれます。

ところでこのレポートにアーロン・デニソンが1850-52年の間スイスに滞在してスイスのウォッチメイキングを研究していたとありますが、これは常識なのでしょうか?アーロンがイギリスに行ったり、後年トレモント・ウォッチの時にスイスに行ったりしたという話はよく読みますがボストン・ウォッチ・カンパニー 以前の時代に二年間もスイスに行っていたというのはダビド・レポートを読むまで知りませんでした。

ジャックはこの話を「ある人」(ダビド・レポートではあらゆる個人名が伏せられている)から「自分とアーロンの二人で行った話」として直接当事者から聞いたらしいので結構信頼性の高い話ではないかと思います。この種の臨場感ある話が出てくるところがダビド・レポートの面白いところです(私の無知だったらお許し下 さい)。

ちなみにダビド・レポートにおいて名前の伏せられている「ある人」とは恐らくネルソン・ストラットン(Nelson P. Stratton)ではないでしょうか?ボストン・ウォッチ・カンパニー設立時にアーロン・デニソンが一緒に伴っていた人物としてストラットンの名前は良く出てきます。この人はアメリカで初めて「マシン・メイド・ウォッチ」の試みを行った人として知られる時計師ピットキン(Pitkin)の4人の弟子の一人だった人です。1840年代にデニソンに気に入られて雇われて以来、長くウォッチ業界にいて基本的にデニソンと行動を共にする機会が多かったようです (1860年代まで。イギリスなど海外に出張滞在する事も多かったようです)。

ボストン・ウォッチ・カンパニー設立前にデニソンと一緒に スイスに行って勉強してその後もウォッチ業界に居続けた人、というとこのストラットン氏である可能性が非常に高い、と愚考するものであります。ジャック・ ダビドは何らかの理由でこの古老の話を聞く機会を得てこれを書き残した物ではないかと思われます。

さて、ダラダラと話が長くなっておりますが以下、ジャック・ダビドが本章の締めくくりに述べている文を一部訳します。


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現在(アメリカにおいて)稼働しているウォッチ工場が能く現状を維持し外国製品との競合を克服する事に成功したならば(彼らはそうするのに適したポジション にいるのだが)将来的にはウォッチ工場の数は増える事であろう。これは我々のようにウォッチ製造によって生計を立てている国々にとっては重要な問題である。そのような国は自分たちの製造方法を避けて通ることの出来ない方法(訳注:機械的製造のこと)へと変更すべく一刻も早く必要な一歩を踏み出さなければならない。我々がそれを行うのを待てば待つほどアメリカは製造機械を設備する時間的余裕を持つであろうし、それだけ彼らは成功を収め、確固たる地盤を築くことになろう。

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ジャック・ダビドの深刻な危機感が吐露された一節です。現在のアメリカは経済状況が足を引っ張ってウォッチ産業の生産が一時的な足踏み状態にあるが経済が回復したら物凄い勢いで奴等は伸びて来るであろう、だから我々スイスも一刻も早く新しい生産方式を取り入れないとダメなんだ、という事をジャック・ダビドは言っているのであります。実際アメリカのウォッチ産業はジャックの言うとおりその後またまた爆発的な成長を遂げることとなったのであります。

第一章の内容紹介は以上です。次は第二章「財務状況」ですがここにおいてスイス人ジャック・ダビドはアメリカン・ウォッチカンパニーに対してなかなか鋭い財務分析を行っています。「よく当時こんな資料が入手出来たものだな」と感心します。この財務分析によって炙り出されるアメリカン・ウォッチ・カンパニーの姿は実は我々がこれまで聞いて来たものと実は隔たりがあります。個人的には非常に参考になりました。次の書き込みをご覧いただければ幸いです。

(つづく)
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ダビド・レポート(7)

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次の例はユナイテッド・ステーツ・ウォッチ・カンパニー(United States Watch Company at Marion)。この会社は1876年にはちょうど破産して整理しようかというところだったそうです。不況を乗り越えられなかったという訳ですね。再建策 も講じられたものの、それに吸い取られた結構な費用は効果的に使われず株主の不利益となるばかりだったので首脳陣は希望を失って「もうやめましょうや」と いう事になったらしい。この会社の払い込んだ資本金は約100万ドル。対して破産時の負債総額は170万ドルだったそうです。現代の貨幣価値でいくらくらいに換算されるのでしょうか?1ドル8,000円で考えると負債額は136億円程になりますがいずれにしても掃討の負債額と思われます。ちなみに製造機械 類は状態が悪かったせいか二束三文の評価だったそうです。

不思議な事にダラーウォッチの元祖とも言えるオーバンデールについての言及もあります。

「オーバンデールは現在機械設備の完成を待っているところである。その目的は回転ムーブメントの竜頭巻きのスペシャル・ウォッチを造ることである。この構造は大変複雑でちょっと見た感じでは発明者が言うほどのアドバンテージがあるようには思えない」

と ジャック・ダビドは述べております。スイス人スペシャリストの目にはオーバンデールは奇妙なものに見えたのでしょうか。ちなみにオーバンデールはほぼ ジャックの予想したような結果に終わったと言って良いと思います。このオーバンデールについては「ダラー・ウォッチ列伝」にてご紹介する予定です。

ダビド・レポートで「惜しいなあ」と思ったのはフィラデルフィア・ウォッチ・カンパニーの話です。ダビド・レポートでは、

「フィラデルフィア・ウォッチ・カンパニーと呼ばれる工場はスイスの工場から製品を輸入している」

という一行で片付けられています。もう少しジャック・ダビドが調べてくれて「スイスのシャフハウゼンの工場から」とか一言書いて置いてくれたらマニアの皆さんには非常に有益な情報だったのになあ、と思いました。スイスといってもジュネーブだバレードジューだルロクルだラショードフォンだシャフハウゼンだ、と色々あるんだからスイス人の癖に「スイスから輸入している」と大ざっぱな記述で済ますのは怠慢じゃないか、と文句の一つも言いたくなります。まあジャックは そういうスタイルの商売に全然興味なかったんでしょうね。尚ワトキンスの英訳文が"factories in Switzerland"と複数形になっておりますのでフィラデルフィア・ウォッチ・カンパニーはスイスに複数の仕入れ工場があったんだろうなという感じ はします。

さて、群小の工場の話はきりがないのでここでジャック・ダビドがアメリカン・ウォッチ・カンパニー・イン・ウォルサムについて解説・描写している文を以下、ご紹介します。


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1845年、ボストンのウォッチメーカー、デニソン氏は機械的工程でウォッチ製造することによって海外の工場と競争しようというアイデアをE.ハワード氏に提案した。二人はボストンのサム・カーチスを加えてパートナーシップを結び1850年、ロクスバリーに合衆国初のウォッチ工場を設立した。この工場においておよそ1,000個ほどのムーブメントを製造した後、彼らは「ボストン・ウォッチ・カンパニー」の名のもと、新しい会社を設立したのである。

ある人物はデニソン氏と1850年から1852年にかけてジュラ山地のウォッチ製造の盛んな地域に滞在していたと述懐する。スイスの製造方法を学び、そしてその知識に基づいてアメリカにおけるウォッチ製造手順の基本をうち立てるためであったという。

この新会社はその後ボストンからおおよそ10マイル離れたマサチューセッツのウォルサムに移転し1854年には正式に法人格を得た。

1857 年、この会社は破産しその資産は競売にかけられた。アップルトン&トレーシー・カンパニーの代理人としてのR.E.ロビンス(R.E.Robbins)が 56,000ドルでこれを買い取った。これには工場周囲のかなりの土地も含まれていた。このビジネス上の資産は間もなく「ウォルサム開 発」(Waltham Improvement Company)に譲渡された。同社はチャールズ川南岸の工場に隣接する土地所有者たちで構成されている会社である。(中略)

アメリカ ン・ウォッチ・カンパニーのビルディングは今や2エーカー(約8,100平米)ほどの床面積でそこで働く900名ほどの人員を簡単に収容することが可能である。収容人数にはまだ多少の余裕がある。数多くの建物の間のスペースはエレガントなガーデンで占められており、会社の周りは美しい芝生に囲まれている。

元々はウォルサム開発(株)に属していた100エーカー(約40.5万平米)ほどの土地は小住宅やアパートに覆われている。中には従業員によって建てられたものもある。現時点では全部で300軒ほどの様々な外観や広さの家があるがそのどれもが住み心地の良いものである。家々は大体において果樹、花、芝生の生い茂った庭に囲まれており、それがこの産業区の目覚ましいばかりの繁栄を顕している。

ウォルサムの製造機器類は400,000ドルの評価額で、実際今作るとなると確実にそれくらいの金額になろう。但し(過去連綿と)これらの機械の製造に使われた支出額総計はこの数字よりもっと莫大なもので ある。土地と建造物は300,000ドルの見積。この工場の総資産は1,800,000ドルである。

動力は二基のスチーム・エンジンから供給される。一基は25馬力、もう一基は30馬力のものである。

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1876年時点でジャック・ダビドが書き残したウォルサムの来歴と史実として現在伝えられている内容とを照合するとなかなか興味深いと思いました。

また、ジャック・ダビドはアメリカン・ウォッチ・カンパニーの工場の威容、美しさ、そして社員達の社宅の美しさ、社員たちの幸福な生活ぶりが目に沁みたようです。このあたりはダビド・レポートの第三章でも繰り返されていますがこういう所にジャックはアメリカのウォッチ産業の繁栄を見て取ったものらしい。このあたり、 ジャックの冷静な筆致の中に潜んだアメリカン・ウォッチ・カンパニーに対する賛嘆と羨望の念が確実に読みとれるように思いました。

(つづく)

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ダビド・レポート(6)

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●ダビド・レポート 第1章:アメリカのウォッチ工場の数と順位
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この章は本来、アメリカのウォッチ産業について豊富な知識を持っているとは言えないスイスの業界人たちにアメリカにはどんな会社があってそしてそれらはどん な経緯を辿ってきたのかという概略を説明するために設けられた章です。なので当然、アメリカ懐中時計に親しむ人にとっては常識的な名前が羅列される結果となっておりますがその内容はジャック・ダビドというスイス人が1876年現在のアメリカにおいて調査し、聞き取りをした現在進行形の情報であるため読んで みると独特の臨場感があります(これはダビド・レポート全体を通じて言えることで、アメリカのウォッチ産業が壊滅してから後でまとめられた客観的な資料とは趣の異なる面白さがあります)。

1876年、アメリカのウォッチ産業はフィラデルフィア博覧会においてその技術力を誇示する一方、経済は先述のような不況に喘いでおりました。アメリカのウッチ産業もそのあおりを受けてアメリカン・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)ですら減産、一時的な操業停止、レイオフなどに追い込まれておりました。ジャック・ダビドはその姿をちょうど現在進行形で目の当たりにしてこれについても様々な考察を加えています。私はこれがジャックの「スイスの工場生産はどうあるべきか」という考え方に大きな影響を与えたのは確実だと思います(これについては別の章に詳し いので別途ご紹介します)。

ジャック・ダビドはこの章において「これまでに創業されたアメリカのウォッチ製造工場」としてアメリカン・ ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)、ナショナル・ウォッチ(エルジン)、スプリングフィールド(イリノイ)、ユナイテッド・ウォッチ・カンパニー(マリオン)、E.ハワードなどを初めとする都合15工場のリストを挙げております。

が、ダビドの見るところ1876年時点で「現在きちんと活動していて機能していると考えられる会社」というのはそのリストの中でも、

・アメリカン・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)
・ナショナル・ウォッチ・カンパニー(エルジン)
・スプリングフィールドウォッチ・カンパニー(イリノイ)

の僅か三つだけだったとのこと。ダビドによれば他の会社はそれぞれ創業されたばかりであったり操業停止していたり或いは既に空中分解していたり破産に瀕してしていたりしていて彼の目には「商売になっている」とは映らなかったようです。ダビドはその3社以外の選に漏れた?会社についても短い解説を行っており、 これはこれで結構面白いです。

例えばハワード(E.Howad & Company)。上記の「まともな会社リスト」からハワードが抜けているのは意外な感じがしましたがダビドによれば興味深い事にこの1876年当時、ハワードのウォッチ生産は完全な操業停止に追い込まれていたそうです。以下ダビドのレポートを引用します。

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ロクスバリーのE.ハワード&カンパニーはその製品の評価という点では多年にわたって最高のものであった。その機械設備は他の工場に比べれば少なからず非力ではあるが完璧なものであり、その工場は約150名のワークメンを雇用するに充分なスペースを持っている。だが他工場との競争により(破れ)現時点ではウォッチムーブメントの生産は完全に停止している。さらに、最近行われた工場内の人員総入れ替えは結果として製品品質の少なからぬ低下を招き、その結果としてこの会社は新たな顧客の開拓を必要とするように思える。

現在この会社は非常に好評価を得ている振り子式クロックムーブメントやタワークロックの生産にその経営資源を傾注しているところである。クロック製造設備は新式で、巨大でそしてウォッチ・ムーブメントの生産には全く関与しない部分である。

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ウォルサムやエルジン等と比較するとハワードという会社は少しく毛色の違う会社でそこには少量生産、高品質、高価、というイメージがあります。

「ハワード氏には『数量を追うのではなくむしろ高品質を目指したい』という強い意志があったがこれがために彼の時計はマーケットの主流の価格より高いものとなった」

という意味のことをハロルドも述べております。アメリカン・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)が大々的に売上を伸ばした南北戦争の時期においてさえハワードの売上は芳しからず、ハワード氏は大いに苦戦したとのこと。

ハワードという会社はその長い歴史の中で常に高品質を理念にかかげながらも商売面ではいつも廉価で中程度の品質のウォッチとの戦いにさらされ続け、その経営は決して利益に富むものでは無かったのではないかという印象です。1876年にジャック・ダビドがレポートしたような操業停止に追い込まれるような躓きは実は何度もあったのではないかと想像します(アメリカ系の時計本をいくつか当たってみましたがこの1876年の操業停止の話は出て来ませんでした)。やはりエドワードが創業社長であり且つ最大株主、という事でこういう経営を続けることが出来たのでしょうか。 また後年ハワードがキーストンに身売りした時にクロック部門を別会社として分離したという話もダビド・レポートと合わせて読むと「まあ比較的簡単に分離出来る組織 だったんだろうな」と納得が行く感じです。

(つづく)
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ダビド・レポート(5)

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さて、ダビド・レポートの続きをご紹介したく思いますがその前にジャック・ダビドがニューヨークの地を踏んだ頃のアメリカの社会はどんな雰囲気のものだったかについてのお話しを少しさせていただきます。

これまでに散々1876年当時のアメリカのウォッチ産業を持ち上げて?参りましたがしかしフィラデルフィア博覧会が開催された1876年、この年は実はアメリカも深刻な不況の最中にありました。この話はダビド・レポートにも「現在のアメリカは不況の最中にある」と明記してあります。

これに関して私は当初「まあ好景気に沸く中で一時的な不況に襲われていたんだろうな」と余り深く考えていなかったのですがふと気になって山川出版社の「アメリカ史」(紀平英作編)という本を読んでみました。そうしましたらこれはどうも生半可な不況では無かったようであります。経済は一時的に信用不安の状況にあった、とあります。調べてみて驚きました。

一体何でそんなに不況になったのか、と思って上記「アメリカ史」を繰ってしばし読んでみましたところ、これを説明するにはそれこそ1861年-1865年の 南北戦争であるとか、あるいはその後の南部再建であるとかについての話から縷々説明しなければならないという事が判りました。これは時計の話から離れすぎますし正直なところ私ごときに正確な説明が出来る事柄ではありません。

強いてウォッチ産業に関係あるところで言うと直接的には1873年の過剰な鉄道投機をきっかけとして発生した恐慌。これがその後1880年代まで続く不況の引き金を引いたもののようであります。「鉄道は儲かる」という事で投機的な思惑の資金が集中したがやがてバブルが崩壊したという事でしょうか。

この不況は当時のアメリカの労働者が政治に対して抱いていた不満とシンクロいたしましてやがて1877年、ピッツバーグにおける市場未曾有の大規模鉄道ストライキを引きおこすに至ります。前掲書「アメリカ史」にこの鉄道ストライキにおいて沢山の蒸気機関車がボコボコにされている写真が載っておりました。怒りに燃えてストライキに参加した鉄道関連労働者たちが暴れ回ったついでに汽車を燃やしたりしたのだろうと思われます。ストライキというよりは暴動と言った方が正しい騒擾ですね。実際そのストライキ鎮圧には連邦軍を投入しなければならなかったそうであります。上の写真はその騒動により破壊されてしまったピッツバーグの鉄道操車場の姿であります。汽車がボコボコにされています。

そのような時期であれば鉄道会社の運行も当然麻痺状態となり経営にも重大な障害を来したものと想像されます。それに伴いウォッチの販売に深刻な影響があったであろう事は想像に難くありません。というのもアメリカのウォッチ産業はそもそもレイルロードとの因縁が非常に深い成り立ちのものであり、最初から鉄道需要をあてにしていた会社が非常に多かったからであります(但しウォルサムとハワードの成立はこの例に当てはまりません)。ここでちょっとハロルド本の P.70から一部粗訳いたしましょう。

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ウォッチと鉄道との間に近しい関係があるのも当然だと見ることが出来る。実際問題としてJ.C.アダムスはシカゴ近辺の鉄道と(それに関連する)産業の隆盛に基づいて1864年にイリノイ州はエルジンの地にナショナル・ウォッチ・カンパニーを設立したのである。彼はその後もコーネル、イリノイ、ペオリアという三つのウォッチ会社を設立することとなった。同様の理由でイリノイ州は他にも数多のウォッチ会社を持つことになる。ロックアイランド、ロックフォード、フ リーポート、ウェスタン、オーロラ、ウェストクロックスである。

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それらの工場は全て鉄道産業の集う周辺に建てられていたそうであります。最初から鉄道需要を見込んでいたという事だと思われます。エルジンの主要創設者であるJ.C.アダムスはリバプールで五年間の時計師修行を終えていくつかの履歴を重ねながらエルジン創業直前にはシカゴ近辺の「鉄道タイムキーパー」なる仕事を任されておったそうであります。

鉄道タイムキーパー、とは一体何をやる仕事なのでしょうか?どなたかレイルロード・ウォッチに詳しい方、ご教示いただければ幸いです。ハロルド本の原文は "timekeeper for the railroads" であります。語感からは何となく機関車の適切・定時運行のコントロールにかかわる職種のような感じもありますがアダムスおじさんはそもそも時計師なのでやはり鉄道時計の整備修理をやっておったのでありましょうか?

で、アダムスおじさんはこの仕事を通じて、

「ウォッチには巨大な需要がある。ここシカゴにはチャンスがある」

と強く感じるものがあったらしい。ですが先行したボストン・ウォッチ・カンパニーなどの実例が示すとおり近代的ウォッチ工場を設立するのに必要な経費、事業が黒字化するまでに持ちこたえなければならない費用は莫大なものです。

「ウォッチ製造は絶対儲かるはずだが起業するには多額の資金が必要だ。よし、知り合いのお金持ちに片っ端から話を持ち込むとしよう」

という訳でアダムスおじさんの探し出した人物がB.W.レイモンド、シカゴ前市長にしてシカゴの鉄道(行政)の推進者。この人がアダムスおじさんの後援者となった事がその後の資金獲得に有利に働いたようです。

「アダムス君をよろしく。 B.W.レイモンド」

なんて書いた推薦状と分厚い企画書でも持ってアダムス氏はお金持ちの間を説得して回ったりしたのでしょうか?

エルジン設立にあたって、結果的にレイモンド氏のような鉄道事業及び鉄道行政に深い関わりを持つ人物が資金を出したり後援者になったりしたという事はつまり鉄道サイドの人間から見ても、

「ウォッチ製作は絶対に当たります。どうか私に出資をしてください。損はさせません」

というアダムスの提案には一定の蓋然性があり、空想夢想・絵空事の類の事だとは思われていなかったという事を示していると考えられます。

話が逸れてしまいましたがそういう成り立ちを持つ業界ですからこの不況に際して鉄道関係の需要が激減、一般需要も減少、これでアメリカのウォッチ会社は大いに困ったのであろうと私は考えます。

ハロルド本の「図16・ウォッチ会社の数」(P.50)というグラフを見ますと1850年代後半から順調に増えてきた ウォッチ会社の数が1870年代前半から1880年代前半にかけて明らかな横ばい停滞もしくは微減の傾向を見せております。新規参入もあったのですが数年と保たずに潰れる会社も多かったようです。アメリカにとっての1876年というのはそんな経済状況の中にありました。

ちなみにこの不況脱出後またアメリカのウォッチ・カンパニーは再び増殖し出すのですがジャック・ダビドは1876年時点のレポートで「景気が回復したらこいつらは絶対蠢き出すに決まっている」とこれを予言しています。

余談ですがこの1876年頃のアメリカの社会というのは滅茶苦茶なものだったんですね。フィラデルフィアにおいて高らかに建国100周年の博覧会を催しその 先進技術を全世界にアピールする一方で経済は信用不安の様相を呈しておりました。南部再建も難航しており再建州政府を憎むクー・クラックス・クラン まがいの民主党員は白昼堂々と黒人や白人共和党員に襲いかかり、南北の経済格差は莫大なものであり、同時に都市部における貧富の格差も莫大なものでありま した。

連邦政府は奴隷解放後の黒人の処遇に悩み、食い詰めて流浪した白人が都市部に流れ込んできて治安が悪化したりしました。そして毎年秋に起こる南部農民の暴動はもはや風物詩となっていて連邦軍もそのうち鎮圧に向かうのを止めてしまったほどです。当時のアメリカにおいてはこの種の社会不安に類する話は腐るほどあったようです。考えてみれば「風と共に去りぬ」の時代からまだ10年ちょっとしか経っていないのであります。アメリカは未だ激動の最中にあった訳であります。

アメリカの歴史に詳しくもないくせにおこがましいのですが、前出の「アメリカ史」を読みかじった結果、この時代はアメリカが黒人奴隷を使役して砂糖や綿花を作っていた農業国家から法整備の整った近代的工業&商業国家に生まれ変わる過程の混沌とした矛盾だらけの時期だったのだなと私なりに了解しました。世界最高度の工業技術を有し、目覚ましい機械工業化を果たし資本主義のモデル国家へと変貌しつつある一方で世界最悪級の社会矛盾を抱えその歪みに呻吟する国家。これが建国100周年を高らかに祝うアメリカのもう一つの姿であります。

ジャック・ダビドがスイスからやってきた頃のアメリカというのはそんな状況だったという事を念頭においてダビド・レポートを読むとまた違った感じで読めるように思いました。相変わらず前置きが長くて申し訳ありませんがではようやくダビド・レポートの続きに参ります。

(つづく)
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2009年6月1日月曜日

ダラー・ウォッチ列伝 (3)

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●ロスコフ・ウォッチの成功

ロスコフ・ウォッチは着想後の10年間は鳴かず飛ばず、具体的な形になる事がありませんでした。その原因としては基礎実験に多くの年月を費やしたという事もありますし、製作面では従来のスイス時計と余りにも考え方の違うものであったため、職人さんたちがそのコンセプトを理解できないどころか「そんなショボい時計なんか造れるかいバーロー!」と怒ったりして作業を拒否したりした、というような事もありました。ですが基本的に工房というものを持たないエタブリスールであったロスコフはそんな頑固な職人たちの間を回って「お願いします、こういう風に造ってください、お願いします」と懇願して回るより他は無かったようであります。

そして苦節10年、「はじめての」ロスコフ・ウォッチが完成したのは結局1867年の事でありました。そしてロスコフは大胆にもこのウォッチを1868年のパリ万博に出展いたします。恐らく万博で展示されている中で一番ショボいウォッチだった事でしょう。が、審査員の中にロスコフ・ウォッチのコンセプトと意義を理解する者がいたらしくこの時計は銅賞を受賞いたします。ちなみに誇り高きイギリス人は「何じゃこのゴミみたいな時計は」と嘲笑したという話が伝わっております。

ロスコフ・ウォッチはアメリカ式の「マシンメイド・ウォッチ」ではありませんでした。大胆な機構の簡略化などのイノベーションはありましたが基本的には人間造り、手組み立てであります。ですがスイスの人件費は安かったようで、1868年の時点でこのウォッチのアメリカにおける売価は恐らく6ドルであった、とはハロルド本の記述であります。

程なくロスコフ・ウォッチは莫大な成功への道を歩み始め、やがてロスコフ・ウォッチはスイス時計業界に莫大な利益をもたらす事になります。

余談ですがこの頃の不幸な出来事としてロスコフの死後の事、ロスコフの提唱した基準に達しない、具体的にはモジュール化した脱進機を使ってない、その脱進機も部品精度、組上精度が悪いために性能が出ていない、そういったニセモノのロスコフ・ウォッチが「ロスコフ式」として大々的に輸出された時期があり、これによって未だに「ロスコフ式は質の悪い安物」という印象が一部に残ってしまっている事が挙げられます。当時、きちんと造られたロスコフ・ウォッチはきちんとした性能を出していた"a truly good cheap watch"だったとのことです。この事はロスコフ氏の名誉のためにも付け加えておきたく思います。



●アメリカン・リアクション

ロスコフ・ウォッチはアメリカでも成功を収め始めました。スイスの工場は膨大な量のロスコフ・ウォッチをアメリカへと輸出したのです。安価なロスコフ・ウォッチが人気を博すに連れ、エルジンとウォルサムは低価格グレードのフルプレートムーブメントを市場に出しました。だがまだ高い。ブロードウェイ・グレードのモデルなどもこの例に含まれますがここに至るまでのアメリカ製低価格ウォッチは部品点数は可能な限り減らしてあったものの、完璧に新しいデザイン(設計)という訳ではありませんでした。まだまだアメリカン・ウォッチ・カンパニーなどの会社が生産するに都合の良い方法が捨てられていなかったのであります。これがスイスの低価格ウォッチに対する競争力を失わせていました。

ここでアメリカ人は「安価で性能の良いウォッチ」というものを実現するには壁がある、この壁を打ち破るには「何か根本的にイノベイティブなもの」が必要だという感覚をより強く持つことになります。スイスの低価格時計はアメリカ人に機械生産・マスプロダクションの更なる推進を決心させる要因となったのであります。

こうした安価な時計製造を目論むアメリカ人の一群の中に 、ボストンのエドワード・ロッキ(Edward Locke)とブルックリンのジョージ・メリット(George Merritt)という二人の特許斡旋人(patent solicitor)がおりました。二人は特許を取得するようなアイデアを扱う業界で仕事をしておったのですが、ある時ホプキンス(Jason R. Hopkins)の「ロータリー・ウォッチ」という発明が彼らの注意を惹きました。

ワシントンDC在住のホプキンスは短命に終わった「ワシントン・ウォッチ・カンパニー」の創設者でした。この会社は1875年頃に工作ツールやデュプレックス・エスケープメント付き鍵巻きムーブメントを50個ほど製造した会社です。この頃にホプキンスはデテント・エスケープメントと回転式ムーブメントを持った不可思議なウォッチを発明ました。彼はこれを50セントで売れるのではないかと考えていたのであります(間違いなくハロルド本原文に50セントと書いてあります)。

デテント脱進機に回転式ムーブメント、というと複雑そうで高価そうですが、実際にはこのウォッチは通常のウォッチより少ない部品で製作可能であり、それ故に安価に製造出来るポテンシャルがあったとの事であります。1867年、ホプキンスはロッキ氏と面会し試作品のウォッチを見せました。これが不幸の星のもとに生まれたオーバンデール(Auburndale)というウォッチの物語の始まりであり、同時のそれに続く数多の「ダラー・ウォッチ」たちの快進撃の序章でありました。

ダラー・ウォッチに見られるアメリカ人の「何か根本的にイノベイティブなもの」は実は今までのウォルサムやエルジンなどのウォッチ産業とは別の方向、多分にクロック業界の息のかかった方向からやって参りました。それは一体どのようなものだったのでありましょうか?

(つづく)
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ダラー・ウォッチ列伝 (2)

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●ジョルジュ・フレデリク・ロスコフ

ジョルジュ・フレデリク・ロスコフ(Georges Frederic Roskopf/1813-1889)はもともとはドイツの生まれ、16歳の時にスイスはラショードフォンにやって来て時計師修行をした後、スイスに定住した人であります。この人はずっとエタブリスールとして普通のスイス的な時計商売をしておりましたが44歳の時に突然、

「20フランで買える時計を造ったらバカ当たりするんじゃないか?」

と、いう着想に取り憑かれる事になります。ロスコフいわく「労働者のための時計(proletarian watch)」であります。そしてこの人はその後10年間というもの「労働者のための時計」の実現に奔走苦労をする事になる訳ですが、この人の伝記類を読んでみても何故突然そういう着想を得てそれまでの商売を止めてしまったのか理由が良く判りません。カットモアがその著書で、

「ロスコフはアメリカ市場の動向、最新設備による時計製造ありようについても知っていただろう」

と述べていますが、恐らくこの人はエタブリスールとしてウォッチ輸出などを手がけるうちにアメリカを含めた世界の情報を豊富に入手できるようになり、それを通して時代の空気、変化というものに対して鋭敏な感性を涵養するに至ったのではないかと想像いたします。それが「大衆の時計には莫大な需要がある」という確信のもととなった可能性があると考えております。



●ロスコフ・ウォッチの特徴

"Technique and History of the SwissWatch"
(by E. Jaque and A. Chapuis/Hamlyn Publishing/1970)

という本によればロスコフが「大衆の時計」を造るに当たって練りに練ったコンセプトは以下のようなものでした。

【ロスコフ・ウォッチの理念的コンセプト】
 (1)一般労働者に正確な時計を適価で提供する
 (2)贅沢、華美な外装仕上げはこれを廃止、その分をムーブに使う
 (3)高品質の材料のみを使用する。職人のおっさん達には高度のクラフツマン
  シップに対して報酬を与える事にする(デコレーションには金を使わない)

【ロスコフ・ウォッチの技術的コンセプト】
 (1)必要最低限にまで部品点数を大幅に減らす
 (2)脱進機構を簡略化する
 (3)ゼンマイ巻き上げ機構を高能率なものにする
 (4)輪列の絶対トルクおよびトルク伝達効率を上げる
 (5)単純にして強固なケース構造を採用する

以上のコンセプトを現実化するためにロスコフは以下のような作業を行いました。

【輪列の合理化/バーレル(香箱)の大径化】
ロスコフは大胆にもセンターホイール(2番車)を廃止しました。バーレル(香箱)で直接3番車(に相当する物)を駆動しました。これによって空いたスペースを利用してバーレルを大きくすることが可能になりました。大衆時計を目指していたロスコフ・ウォッチは価格上昇の原因となるジュエル(宝石)軸受けなど絶対使わない事を前提としていたので当然理論的に輪列の駆動抵抗が大きくなるのは明白であります。そう考えると歯車を一枚省略出来る事は巨大なメリットですしバーレルが大きくなる事は駆動抵抗の大きい輪列に対して強力な動力を供給するという意味では有利なものとなったと思われます。ちなみにロスコフ・ウオッチの輪列は図を見る限りバーレル歯車が現代で言う日の裏輪列に相当するものを直接駆動しているようです。

【組み付け式脱進機の採用】
ロスコフは脱進機を地板の上でクチャクチャ組み立てるんではなく、脱進機は脱進機でひとつの部品として事前に別工程でひとつの「ユニット」として組み上げておいて、それを出来上がってきた地板にポンとネジ止めする方法をとりました。これによって工場での生産効率がうんと向上しました。

【ピンレバー式脱進機の採用】
ピンレバー脱進機はロスコフ・ウォッチの代名詞のようになっております。そもそもピンレバー脱進機というものは1798年にルイ・ペロン(Louis Perron)というおっさんが発明したものなのだそうですが、実際問題としてはロスコフがこれに着目するまで殆ど使われる事は無かったようです。ロスコフは最初この「労働者の時計」には「まあシリンダー脱進機を使っとくか」と考えていたのですが、ピンレバー脱進機の改良に熱心だったM.J.グロスマン(Grossman)という大先生と何らかの理由で知り合い、この人に「ピンレバー使わんかいワレ」とこれを強力に勧められ、

「じゃあピンレバーで行くべ」

と、これに決めたのだそうです。どうもピンレバー式脱進機は基本性能が良いのみならず、上記の「事前ユニット化」に適した構造だった模様です。ピンレバー式の「複数の分解可能かつ比較的簡便な部品の集合体」というところがロスコフのエタブリスールとしての長年の経験と勘に訴えるところがあった模様です。ちょっと乱暴ですが、ピンレバー脱進機の動作原理はほぼ「ジュエルド・レバー」と同じ思想のものだと言えると思います。特に「デタッチャブル脱進機」という意味ではジュエルド・レバー方式と同じでシリンダー式よりフリクションは少ないのではないでしょうか。ただインパルスを受ける部分に一切宝石を使用していないので長期的な性能保持は難しい、というところが難点かと思います。

他にもケースを裏ブタなしのムクにしただとか、キーレスワインディングにしただとか、紙のダイヤルを採用しようとして失敗しただとか、ゼンマイ巻きすぎ防止のストップワーク(マルテーゼクロス)を廃止した、など色々とありますが省略します。

(つづく)
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ダラー・ウォッチ列伝 (1)

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●ダラー・ウォッチ誕生の頃の時代背景

さて、近代産業の発展興隆に伴って人々がその意識の変革を迫られることとなったものの一つが「時間」というものに対する概念でありました。産業社会とは荒っぽく言うと労働者が家の周りの畑ではなく、都市部あるいはその近郊の工場や事務所に出向いていってそこで生産作業その他に従事して仕事が終わったら家に帰っていく社会であります。そこには始業時間、労働時間、休憩時間、終業時間という概念があり、人々はこのタイムテーブルに従って能率良く働くことを要求されるのであります。また人々は時間内に工場に到着するためには通勤時間も見込まなくてはなりません。

こうした近代工業社会、産業社会に人々がその身を投じる時、それまでの生活で充分有用だった時間的指標、つまりそれは太陽の高さや教会堂の鐘の音だったりした訳ですが、それらの指標では全く精度が不足していたのです。勿論精度の高い時計というものは既に存在しておりました。ですが当時、時計は非常に高価な物でとても平均的労働者の手の届く物ではありませんでした。平均的労働者の日給が1ドルだった頃、ウォーレンという置き時計は40ドルしました。まともな懐中時計はもっと高かったでしょう。

仕方ないのでそうした人々は町を歩くときキョロキョロあたりを見回してタウンクロックで時間を確認しながら工場に急ぐ、というような事をやっていたそうであります。

そこで人々は考えました。

「ああオレも自分専用の時計が欲しいものだ。安くて正確な時計があればなあ」

これがダラー・ウォッチ誕生の素地であります。ここでちょっと上記"American Watchmaking"(以下ハロルド本)から一部訳してみましょう。


(訳開始)================================================

この国が農業国家から産業国家へとなるにつれ時間単位の行動というものが人生の重要な一部となり、人々にとってビジネスにおける一日の時間管理をする必要性はより大きなものとなった。もし産業社会の中に巻き込まれていなかったとしても既に鉄道網は国中に張り巡らされており、列車の汽笛を無視するのは無理な相談だった。良きに付け悪しきに付け、この国全体がまるで鉄道のように「時刻表(Timetable)」に則って運営され初めていた。そしてそれは人々の無意識のうちに各個人の人生の一部となっていたのである。

このため時計に対する大きな需要が形成され始めた。この需要は時計産業の規模を大きくする助けとなった。そして次に、人々は誰もが買うことの出来る時計を欲した。だが初期の時計産業はその需要に応えることが出来なかった。人々は高価ではないが信頼性が高く使いでのある時計、少なくとも数年は動き続ける時計、そして修理の可能な時計を欲していたのである。

=========================================(訳終わり)


●初期の「大衆の時計」への試み

となれば「安くて正確なウォッチを造れば莫大な量が売れるに違いない」と考えた時計産業人がいたのも当然でありましてアメリカにおいては1860年代からいくつかの会社がこの分野への参入を試みる事となりました。が、これがなかなか苦難の道でありました。値段が下がらなかったのであります。

アメリカにおける「誰もが購入可能な大衆時計」への最初のアプローチはボストン・ウォッチ・カンパニーから始まりました。「C.T.パーカー」という時計を7石の低グレードウォッチとして製作したのです。ハロルドによればこれは恐らく20ドル以下で売られていたであろうとのこと。低価格と言ってもまだまだ一般人には簡単に手を出せる金額ではありません。

ハロルド本から拾ったその後の低価格ウォッチ(inexpensive wataches)の系譜は大体以下の通り。

・P.S.バートレット(アップルトン・トレーシー&カンパニー)

・J.ワトソン(アメリカン・ウォッチ・カンパニー)
 ※ウィリアム・エラリー名も同じモデル。南北戦争による需要喚起を受けて大いに売れた

・ホーム・ウォッチ・カンパニー(ウォルサム)

・ブロードウェイ(ウォルサム)
 ※ハロルドによればこのモデルの売価は10ドルかそれ以下だったとのこと

以上は全て「ジュエルド・レバー・ウォッチ(jewelled lever watches)」であります。つまりウォッチの心臓部である脱進機に高信頼性のレバー式を採用してそのレバーの駆動にかかわる部分であるツメ石、振り石に宝石を採用していたのです。その他の部分にも最低限の宝石を用いていて大体7石〜11石程度のものでありました。ウォルサムはそもそも多石のきちんとしたウォッチを造っている会社でしたから低価格ウォッチといっても上級ウォッチの構造を簡略化した、そもそも素姓がいいというか、或る程度以上はコストダウンしにくい構造のものであったようです。

こうした「一般大衆の時計」のアメリカ市場においてアメリカ製品の競争相手となっていたのはスイス製シリンダー・ウォッチでした。ウォルサムの最新鋭機械設備で造られた「ブロードウェイ」が売価10ドル程度であったのに対してこれらのスイス・ウォッチは8ドルほどで売られていたのです。

ただこのスイスからやって来たシリンダー・ウォッチは相当にショボいウォッチだったようです。このあたり、ハロルド本から引用してみましょう。

(訳開始)================================================

それでもまだスイスのシリンダー・ウォッチとの競合があった。スイス時計はわずか8ドルかそこらだったのである。これらの安物スイス・ウォッチは手工業によってぐちゃぐちゃと組み立てられた物で分業制で作られていたために安かった。その工程のどの段階においても手作業でどたばたと作られたもので(the manufacturing process was performed rather hastily by hand)、結果としてその品質はバラバラ、多くの場合は低品質だった。それに伴ってそれらの時計はタイムキーパーとしては不規則に過ぎ、しばしば新品であるにも拘わらず調整・修理を必要とした(訳注:昔のソ連時計みたいですね)。全部が全部このテの物では無かったにせよ、こうした理由でスイス時計の評判というのは芳しくなかったのである。

==============================================(訳終わり)

私のようなスイス時計ファンにはにわかに受け入れがたい話ですが、これも当時のスイス・ウォッチのひとつの真実であります。スイスの汎用ウォッチの品質の悪さについては1876年当時のロンジンの技師長ジャック・ダビドも「ダビド・レポート」の中で「アメリカ製の時計に比べて我々の造る時計はこんなにもお粗末なものではないか!」と悲憤慷慨しています。

このように「スイス製はボロい」と言われつつもその安価さゆえにアメリカにおいて常に一定量のシェアを確保していたようです。

従来の形式のウォッチの場合、アメリカ式マシン・メイド・ジュエルド・ウォッチでは値段を下げるには限度がある、スイス式の手作業ぐちゃぐちゃ組み立て方式の場合は品質に問題が出る、というこのジレンマに際して、

「何か根本的にイノベイティブなものでないとウォッチというのはこれ以上値段は下がらず『真の大衆時計』の実現は難しいのではないか」

という認識が時計業界人の間で徐々に共通のものとなって来ました。そしてその「何か根本的にイノベイティブなもの」はまずスイスからやって参りました。

ロスコフ・ウォッチであります。
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デュボア・デプラ (3)

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●マーセル・デプラ悩む


DD本によればマーセル・デプラが生まれ育ったジュウ渓谷のリユーの地に電信が導入されたのは1867年、電話が導入されたのが1897年だったそうです。郵 便制度も導入も同じ頃。村の主要街路に2連のガス灯がともったのもこの頃。電力が導入されたため各家庭に水道が通った(多分ポンプで水を汲み上げて高台に 貯水出来るようになったんでしょうね)。1886年から1899年にかけては鉄道が敷設された、とあります。

こうした電信・電話・鉄道の導入がマーセル・デプラ独立の伏線の一つであります。ちなみに電線が各家庭に張り巡らされたのは1904年頃。ラジオ受信は1924年頃。

1899 年の時点でマーセルはモンティリア時計製造工場のシェフ(工場長)をやっておったのですがその頃にマーセルに対して二つの申し出がありました。一つはモラ (Morat)という村だか町だかのお役人が持ってきた話で「あんた、ウチの村の時計工場を指導して立て直してはくれんかね」というなかなか魅力的なも の。もう一つはマーセルの生地に近いらしいVieux-Moutier(多分そういう地名)にあるパウル・オーベール&サンズ(Paul Aubert & Fils)というところで複雑時計の製造を指導するというもの。

25歳の若者にこのような重要なオファーが立て続けに来るという事自体が当時のマーセルの評判の高さを窺わせます。

「モンティリア時計製造のシェフのマーセル・デプラっちゅう男は天才的な奴らしいがや」
「おお、クロノグラフの鬼だっちゅう話だがや」

くらいの評判はあったのかも知れません。

マーセル青年は随分悩んだ事でしょうが彼は結局パウル・オーベールで働く道を選びました。これは私の全くの推測ですがマーセルは恐らくパウル・オーベールの業務の指向性に興味を持ったのではないかと思います。

こ のパウル・オーベールの工場が目指していたのは「(クロノグラフ)ムーブメントの完成品製作」でした。完成品のムーブメント、つまりポン付け可能な状態に 完璧に仕上げられた製品を作る、という事です(*)。マーセル・デプラはこのパウル・オーベールの方向性に「新しい時代の空気」を感じていたのではないで しょうか。

このパウル・オーベールの方向性は非常に興味深いものです。その頃はスイスにおいても時計製造手法の近代化、機械化が叫ばれて いた時期でした。直接の契機は1876年のアメリカ建国100周年記念フィラデルフィア博覧会であります。これを視察したファーブル・ペレ、ジャック・ダ ビドらによる、

「我々スイスの時計産業は機械化されたアメリカの時計産業に比べて激しく遅れている。今のままでは我々は滅びる。我々は自らを変革する事によってしか生き残る事は出来ないのだ」

という提言をきっかけとしてスイスの時計産業は大規模かつ長期の変容時期に突入いたしました。パウル・オーベール工場の目指した方向性がジャック・ダビドらが提唱した変革の流れがジュウ渓谷において発現したものである事は疑いようの無いものと考えられます。

「これは新時代のやりがいのある仕事だ」

マーセル・デプラ青年はそのように思ったかも知れません。マーセルにはその手法を「新時代のもの」と考えるだけの理由があったと思います。


●A brief look back to the TRADITIONAL watchmaking in Switzerland

このあたりの「スイス時計産業の新時代への変容」話を始めると「スイス時計の分業の歴史」についての話になりもの凄く長くなりますし、デュボア・デプラの話 を離れてしまいます。これについては別の機会に譲るとして、現時点では手短な例として左の画像をご覧いただきたいと思います。

これは1890年代のヤーゲンセン(Jürgensen)の時計製作台帳の或る1ページでそこには"No.13884"というムーブメントの製作に必要となった工程と費用が記録されております。

こ れが19世紀末のスイス時計産業の分業制度の実態であります。分業工程だけでもざっと20以上あり、それぞれの工程ごとにそれぞれの業者または作業者に 支払った金額の明細とトータルが記録してあります。当時の時計製作がいかに手間ひまのかかるものだったかがおわかりいただけるでしょうか?

この台帳から読み取れるのはこのヤーゲンセンは、

・ムーブ外径20リーニュ
・クロノグラフ
・5ミニッツリピーター
※"Repetition V minutes"の"V"は"cinq"の略号だろうと思います。

の 超高級品だという事です。またエボーシュの納入業者がピゲ・フレール(Piguet Frere/ピゲ兄弟社)であった事も読み取れます。ピゲ・フレールとはその歴史を1770年代にまで遡る事の出来るジュウ渓谷の名門のムーブメント製造業者であります。歯車(Pignon & Roues)もフィニサージュ(Finissage/仕上げ)もアロンディサージュ(Arrondissage/面取り)もまとめてピゲ・フレールが行っ ています。

ヤーゲンセン銘でもムーブメントの実際の仕上げは優秀な外部業者に任せてしまう例があったという事をこの資料は示していると考えられます。特にクロノグラフつき5ミニッツリピーターというような複雑系の場合、餅は餅屋という事でピゲ・フレールに任せてしまうという事がままあったという事ではないでしょうか。

その他レパサージュ(Repassage/再組み立て)がエミーユ?・ペルレだとかレグラージュ(Reglage/歩度調整)がシャルル・デュボアだとか金メッキがA.ジャコーだとか、職人さん達の名前がいちいち由緒正しげで強そう?なのが実に興味深いです。

「こういう名前の奴らが作ったウォッチだもの、超高級品に決まってるじゃないか」

と私などはつい思ってしまいます(バカですね)。

ち なみにこのウォッチのエボーシュ代金590フランは異常に高価だと思います。ヤーゲンセンの他の台帳を見るとピゲ兄弟社の並品?で77フランとかちょっ と高級そうなオーベール兄弟社(Aubert Freres)ので300フランというような数字を目にします(エボーシュ代金とフィニサージュ代金、歯車類代金の合計)。それよりもうんと高価なウォッ チですからマニアが見たら陶然たる思いに捕われるような高級品だったのではないでしょうか。



お そらく台帳の超高級ウォッチはこんな感じだったのではないかと思います。ただ台帳の金メッキの項目"Dorure de mouvement"の"Dorure(金箔/金泥)"がペンで消してあって何か達筆すぎて読めない文字に書き換えてあるので金色ではなかったかも知れま せん。









ちなみにヤーゲンセンのエボーシュは左の写真みたいな感じ。いわゆるヤーゲンセンタイプと言われるもの。ウルフティースのホイールが見えます。これはオーベール兄弟社製。

このエボーシュは割と最近発見されたものです。オーベール兄弟社の末裔で郵便局に勤めるレオン・オーベール氏がご先祖様が使っていた古い家屋の修繕をしていたら色々な物の間から古くて重いブリキの箱が出てきました。

「何じゃこりゃ」

と思って埃を払って蓋を開けて中を見ると木箱があって、木箱の中から写真のエボーシュが2ダース出てきたそうです。木箱には右の写真のような"JULES JURGENSEN LOCLE(SUISSE)"という焼き印がありました。



「兄ちゃん、ヤーゲンセンさんが『注文は2ダースだった筈だが』って言うてはるで」
「何、本当か?ワシ、もう4ダース作ってもうたがな!」
「じゃあ兄ちゃん、これ次の注文まで寝かしておこか」
「そうやな、またヤーゲンセンさん、注文してくれはるやろ」

100年近く前にオーベール兄弟社でこのような会話があったのかも知れません。

ただ年代から考えてこのエボーシュの在庫はヤーゲンセンの業績不振と何か関係があった可能性があると私は考えております。オーベールのエボーシュ2ダース、24個というのは2,520フラン程度である可能性があります。理由はヤーゲンセンの仕入れ台帳でオーベール兄弟社のエボーシュで「単価105フラ ン」という記帳があるからです。もし写真のエボーシュがそれなら24個で2,520フラン相当の計算になる訳です。

こ んな高価なものをオーベールが好んで不良在庫にしたとは到底考えられません。そこには止むに止まれぬ事情があったと考えるのが自然でしょう。例えば過去納 入分についてのヤーゲンセン側からの支払いが滞ったためオーベールが次の納品を控えた、そうこうするうちにヤーゲンセンの経営が傾いた、支払いを受けられ ないオーベールの経営も傾いた、そして24個のエボーシュは倉庫の肥やしになった、という可能性もあると思います。

ちなみに完成品ヤーゲンセンはこんな感じ。すばらしいの一言です。以上は"Horlogers et montres exceptionnels de la Vallee de Joux"という本に載っていた写真です。

※この本はフランス語で書かれているので内容がよくわかりません。もっとフランス語を勉強して内容を理解したいものだと思いつつフランス語の勉強をしない日々が既に数年間続いております。死ぬまでには読了したいものです。




●マーセル・デプラ独立す

さて、「手短に」と言いつつものすごく脱線しました。申し上げたかったのはスイスの伝統的分業ウォッチ製作はこんなにもコンプリケイテッドなものだったとい う事です。この方法は超高級ウォッチを製作するには最適の方法だったようです。実際この時代のヤーゲンセン、メイランなどのウォッチには溜め息の出るよう な逸品が沢山あります。

ですがこの方法は「ウォッチの更なる普及」という時代の要請に適合するものではありませんでした。高価すぎたので あります。これらの方法でウォッチ製作を していた工房はその後、ほとんど全てが姿を消しました。マーセル・デプラが独立を果たした時代はちょうどそうした旧世代の高級ウォッチ工房が斃れていく時 代でもありました。

「あの方法ではオレの未来は無い」

マーセルがそのように新時代の空気を感じ取っていてパウル・オーベールに身を投じたのだとしても不思議は無いと私は思います。

ところが皮肉な事にこのオーベールの試みは全く成功しなかったとDD本にはあります。マーセルと経営者との間にも意見の相違があったらしい。ただマーセルはオーベールの目指した方向そのものについては確信を持っていたようです。

「こんなんならオレは独立して自分ひとりでやってみせるよ」

という事で生地リユーに戻ってマーセルは自分の会社を興したのでした。正式な会社名は、

"Marcel Depraz, Societe individuelle"

敢えて日本語にすれば「マーセル・デプラ個人会社」というところでしょうか。マーセル・デプラの工場、と呼ぶには余りにささやかなアトリエは何かの部品製作 所跡を転用した物でした。全然立派な場所では在りませんでしたがとにかく1901年1月1日、マーセルはここでウォッチ製作を始めたのでありました。

(つづく)


※上の写真は1901年の独立時に工房前で撮影されたもの。マーセルとその妻エリーゼ(Elise)。マーセルは27歳とは思えない風格。
*La maison Aubert & Fils fait des tentatives pour introduire dans sa fabrication la terminaison complete du produit.
(あちこちの文脈を辿るにこの『完成品』とは『クロノグラフムーブメント』および『リピーターウォッチムーブメント』の完成品という意味のようで通常の三針時計のことは除外している模様)

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ダラー・ウォッチ列伝 -Preface-

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●ダラー・ウォッチとは

1850年代以降に起こった時計大衆化の歴史について考えるとき「ダラー・ウォッチ」(dollar watches)というのは見過ごすことの出来ない巨大なジャンルであるかと思います。「ダラー・ウォッチとは何だ?」と言う事をごく簡単に要約しますとそれは、

「高価な仕掛けは持たない簡素な造りながら、平均的な収入の労働者が自分のために買い求める事の出来る売価1ドル内外の、一定期間きちんと動く、19世紀後半にアメリカで生まれ大量に生産され人々に愛用されたマシン・メイド懐中時計」

という事になるかと思います。つまり「一般大衆の時計」であります。ダラー・ウォッチが誕生するまで人類は真の意味での「一般大衆の時計」を持たなかったと言っても過言ではないと私は思います。

「大衆の時計」という概念そのものは思ったよりも古いもので、私の知る中ではA.L.ブレゲが1794年頃に「大衆が受け入れる時計」という表現を「スースクリプション」というウォッチ販売募集チラシの中で用いたのが「大衆の時計」という概念を世に提示した最も古い例であるように思います。

しかしながらブレゲの提唱する「大衆の時計」たるスースクリプションは現代の目から見ると構造こそはシンプルであるもののその材質、工作、手間のかけ方などを見るにこれは問題外の高品質なもので充分以上に立派な高級品であると言わなければなりません。その価格は当時600リーブル。これを購入できたのは恐らく一部の富裕な市民 に限られていたのではないかと想像されます。

ブレゲが「大衆のための時計」という概念を提唱してから「真の大衆の時計」が誕生するまでに実際には100年近い年月を必要としたことになります。本トピックではその経緯について考えてみたいと思います。

尚、 今回のダラー・ウォッチに関する書き込みは何年か前mixiの「時計の歴史」コミュニティに書き始めて中断していたものの再掲です。こちらのブログに移動したのを機に中断したままだったところ以降も順次書き加えていく予定でおります。

(主な参考図書)

"American Watchmaking"
- A Technical History of the American Watch Industry 1850-1930 -
by Michael C. Harrold
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"The Watch That Made The Dollar Famous"
by George E. Townsend
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"Watches 1850-1980"
by M. Cutmore
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※ハロルドの"American Watchmaking"は1981年出版の質素な装丁のものですが、内容は素晴らしいものです。このような本を残してくれたハロルド氏には感謝あるのみです。

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