2009年8月30日日曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(7)

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H4内部構造評価会議

ここで少々脱線気味ではありますが、ジョン・ハリソンのH4の「内部構造評価会議」とはどのような性質のものだったかについて振り返ってみましょう。

1764
年の航海においてハリソンのH4が赫々たる成果を挙げた翌年の176529日、ロンジチュード委員会はH4の成果を認めつつも、ハリソンが未だH4の構造原理を明かしていない事を問題視する決議を通過させました。「H4の構造原理公開の要請に従えば賞金の半分を渡そう。そしてこのH4以外のタイムキーパーを製作してそれが同様の性能を発揮したら残りの半分を渡そう」というものです。そして不可解な事にこの決議は法案化され、ジョージ3世の20章第5法として議会を通過してしまうのです。ほとんどハリソンを糾弾するに近い内容です。そして委員会は1765528日、ハリソンが賞金の半分を受け取る為の条件として以下の通り決議しました。

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1.H4を製作する大元の図面、説明書き、そしてH4そのものを委員会に譲渡すると誓約する事

2.
委員会が指定する人々に口頭でより詳細な説明をする事。H4をその人々の前でバラバラに分解し、それに関する全ての質問に答え、それを製作するときの一般に知られていないポイント ─例えばスプリングの熱処理など─ について明示する事。必要があれば実験検証も行う事。

3.H1
H3までの三基のタイムピースも委員会に譲渡する事 ========================================================


非常に高圧的な内容と言っていいと思います。この決議に対する抗議としてハリソンは委員会に憤激に満ちた手紙をしたためる事となります。その手紙を以下、少しばかり訳してみましょう。


(訳はじまり)=====================================================


私は、私に対してもっと違った応対をして然るべき人々によって、自分がいいように弄ばれたと考えずにはおれません。もしアン女王の第12法(訳注・ロンジチュード法)が実行されないものであるならば、私は自分の発明を完璧なものに導く為に、何故こんなにも長い年月にわたってその法律にずっと鼓舞されなければならなかったのでしょうか?そして私の発明が完成を見た後、何故私の息子は二回にもわたって西インド諸島に行かねばならなかったのでしょうか?

私の息子が最後の航海指示を受け取ったとき、(ロンジチュード法が実行されないという事を)息子に言っておいていただければ良かった。アン女王の第12法においては考えもされていなかった新しい制限事項を設けられた、あなた方の決議による新しい法律がどのみち施行された事でしょうから。私が言っているのは、もしそうしていただければ、私が今遭遇しているような様々な仕打ちを事前に察知出来ただろうという事です。

私の事例は非常に苛酷なものであるという事が認められなければなりません。ですが私は、議会によって承認された英国の法律に対して、その遵守を迫る事によって苦しむ最初で、そしてこの国のためにも、最後の者となることを希望するものであります。

私が私の正当な報奨金を受け取っていたならば、つまり神が私に与え給うた能力の向上に費やされた40年にわたる徹底的な集中の後にその状態に至ったならば、かくしてこの世の発明の全てがそうであるように、私の発明が然るべき道をたどるのであれば、疑いも無く私は熟練工たちにその原理と製作技術を教示したに違いないでしょうし、そうする事を大いに喜びとしたでありましょう。

しかし、今私が提示されているのは何と大きくかけ離れた事態である事か。つまり、私が全く見も知りもしない人々に(内部構造を)教示するという事、そしてもし私が彼らの満足の行くまでに説明する事が出来なかった場合、私は何も手に入れる事が出来ないのです!(訳注:報奨金の事を言ってます)

私にとって実に苛酷な運命でありますが、この私の発明を奪われるかも知れない世界にとってはもっと苛酷であります。私が委員会の紳士達、熟練工達に心を開いた自主的な態度で私の発明の全ての原理を説明しない限り、事は必ずそうなるに違いありません。

彼らはいつでも殆ど自由に私の(時計製作に使用した)機器類を頼りにする事が出来ます。そしてもしこれらの熟練工の誰かが私の発明を理解出来るほどに優秀であれば、彼らが私から盗んだ発明に対してどれほどの報奨金を喜んで与えるかの決定権はあなた方にあるのです。

そして老齢にある私は一人座り、報奨金を受け取ることは無かったけれども自分がそれを成し遂げたのだという事実(訳注:最初に経度法の定める精度のクロノメーターを製作した事を指すと思われます)に安んじると共に、報奨金を受け取ったという妄想の中で窮乏に苦しむよりはこの方がずっと心が安息なのだと神に感謝しなければならないでしょう。

=====================================================(訳おわり)



※ハリソンは文章を書くのが苦手だったとのことです。この手紙の原文もなかなか文脈のつながりが難解なものでした。ハリソンの意を汲み取って?意訳せざるを得ませんでしたが、いずれにしてもハリソンの怒りと失望の深さ、無力感、徒労感といったものが文章全体に満ちています。

※写真は上記の手紙とは全然別の内容のハリソンの自筆レポート。ハリソンの文章は当時のイングランド人が読んでさえ不可解だったそうです。ハリソンといい、ブレゲといい、理知的な時計作りをする癖に文章がさっぱり要領を得ないという時計師が時々いるのが不思議です。



特にハリソンが抗議したのが「実験検証的公開」(Experimental exhibitions)でした。ハリソンは自分が辛酸を舐めるようにして開発したH4の故なき公開を頑強に拒んで、

「ハリソンは自分の身体にイングランド人の血の一滴でも流れている限り、そのような行いに同意する事は決して出来ないと宣言して荒々しく委員会から出て行った」

と伝えられております(グールド本P.61)。

共に譲らないと思えた両者でしたが結局、ハリソンが折れる事になりました。「実験検証的公開」という屈辱的な条件に同意したのです。ジョン・ハリソン、この時73歳。

「こんな事を続けていたのでは報奨金を受け取る前に自分の生命の炎が先に尽きてしまう」

あるいはそのような無力感、徒労感による自棄的な判断であったかも知れません。

かくしてロンジチュード委員会が選任した7名のメンバーからなる「H4内部構造評価委員会」とも言うべきsub-committeeがつくられ、1765822日からの数日間、ハリソンの工房においてH4の「実験検証的公開」が行われました。

委員会の7人のメンバーとは、すなわち座長のネヴィル・マスケリン、副座長のケンブリッジ大学の数学者ウィリアム・ラドラムそしてトーマス・マッジ、ラーカム・ケンドール、 ジョン・バード、ウィリアム・マシュー、ジョン・ミッチェルであります。この中でマッジ、ケンドール、マシューの3名が時計師であります。ジョン・バードは四分儀・六分儀など天測装置類をつくっていた人。そしてこの7名以外の人間は内部構造評価会議に出席出来なかったと伝えられております。
※Neville Maskelyne, Rev. William Ludlam, Thomas Mudge, Larcum Kendall, John Bird, William Matthews, Rev. John Michell

「神にかけてこの時計のメカニズムと製作方法について説明をします」

という誓約の後、ハリソンは上記メンバーの立ち会いのもと、H4を厳かに分解していったとの事です。

さて、このような経緯で行われた実験検証的公開でしたが当時、クロノメーター・メーカーとしては無名のジョン・アーノルドはこの委員会で明かされた秘密を知る立場にありませんでした。その彼が「このバランスはハリソンのNo.4に使われているものの殆ど複写である」とグールドが述べる程、H4に酷似した部品を持つクロノメーターをなぜ製作する事が出来たのでしょうか?

(つづく)


※今回の書き込みの最後が前回の書き込みの最後とほぼ同じになってます。全然話が進んでいないのが一目瞭然です。大体回り道が多すぎるんですこのブログは。

ハリソンに詳しい方ならば「アーノルドは委員会が出版したH4解説パンフレットを参照したのではないか」とおっしゃるかも知れません。確かにロンジチュード委員会は評価会議の成果として、H4の構造について記した"The Principles of Mr.Harrison's Time-keeper, with Plates of the same"というパンフレットをハリソンの図解を添えて出版しております。ですがこれはグールドによれば「これを手助けとして誰かにH4と同様のタイムキーパーを作らせるには全くもって不充分。無理」という内容だったそうなのでやはりアーノルドにとっても参考にならなかっただろうと私は思います。

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2009年8月19日水曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(6)

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●デタッチド・シリンダー・エスケイプメント

-The Detached Cylinder Escapement-

マリンクロノメーターを集中的に研究した人でルパート・グールドという有名な人がいます(Rupert T. Gould/1890-1948/ 英海軍時代の肩書きから"Lieutenant Commander Gould" とか単に"Commander Gould"と呼ばれる事も多い)。映画"Longitude"において主要登場人物としてハリソンのH1の復元をしていたりしたのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

この人が1923年、33歳にして"The Marine Chronometer -It's History and Development"という本を上梓しました。90年近く前の本ですが素晴らしい内容の本であり、その後の全てのマリンクロノメーター研究の基礎となったと思います(その後刊行されたマリンクロノメーター関連の書物でグールド本の業績に言及していないものはまずない)。

※画像は1924年のグールド氏

さて、このグールド氏が192464日にスイスのパウル・ディティシャイム(Paul Ditisheim)氏に書いた興味深い手紙が残っています。クロノメーター研究史上重要な手紙ですので以下、少し訳してみましょう。


(訳はじまり)===========================
私は貴殿に歴史的クロノメーターとしては珍しい発見について詳細をお知らせしたく、この手紙をしたためています。その功績の大半は私ではなく、貴殿もご存知と思いますが、チェンバレン氏に帰せられます。しばらく前「アーノルドらしきクロノメーター・ムーブメントをロンドンのショップで見かけた。後世の発明家によって実験されていたものだと思う」と彼が伝えて来ました。「何故そのとき買わなかったんだ」と聞くと「持ち運ぶには嵩張りすぎていたしそこまで重要とは思わなかった」との事でした(訳注:チェンバレンはアメリカ人。持って帰る気になれなかったもののようです)。

そこで私はそれを見に行き、結果としてそれを購入しました。ざっと調べた段階ではそれがどの程度のものか正確には判らなかったのですが、やがてそれは見れば見る程とんでもないものだという事が判りました。くまなく調べた結果は以下の通りです。

このクロノメーターは一度も改造されていません。ジョン・アーノルドによって作られた最も初期のクロノメーターのひとつです。私は1768年製と見立てました。これは現在最も初期のものと考えられている王立協会(the Royal Society)に保存してある二つの(アーノルドの)クロノメーターよりも確実に古いものです。

地板にも文字盤にも名前は入っていません。しかしながらバランスやコンペンセーションの作り方、箱の構造など1ダースもの点において、これはアーノルドでしかあり得ないと断言出来ます。これは王立協会の二つのクロノメーターに酷似していますがしかし、そのメカニズムはまだ荒削り(primitive)なものであります。私はこの詳細を、もし可能ならば、貴殿の本に掲載される場所があるかも知れないと思って書き送っています。

ムーブメントとバランスの配列はハリソンのNo.4を思わせます。すなわち、この時計はセンター・セコンド、ムクのスチール製の軽量/三本ウデのバランスと平らなバランススプリング(平ヒゲ)を有しております。

(中略)

脱進機は、私の経験の及ぶ限りにおいて、全くもってユニークなものです。それは言うなれば「デタッチド・シリンダー」(detached cylinder)とも呼ぶべきものです。バランススタッフ(訳注:テンワの主軸部分)は一見したところ通常のシリンダーを有しているように見えます。ところが詳細に観察してみると、そのシリンダーのインパルスフェイス(訳注:シリンダーを切り欠いた部分で脱進機のトゥース-tooth-により駆動力を受ける部分)は二つの小さなローラーにより形成されています。そして脱進機の休止はシリンダーの内壁は全く関与しないのです。衝撃を発生しない時、エスケープ・ホイール(ガンギ車)はレバー脱進機のようにフォークのついたアームによって駆動されるアンクル(anchor)にでもってロックされます。このアームはバランススタッフのローラー上のピンによって動作します。

(中略)

このムーブメントは私の考えでは私が見た中でもクロノメーターの歴史上最も注目すべき証拠となるものです。

このムーブメントはアーノルドがその最初期においてセンターセコンドハンドの採用、コンペンセーションカーブの採用から輪列配置にいたるまでジョン・ハリソンNo.4の影響下にあったという事、そして最も初期においてさえ彼がデタッチド脱進機の必要性や歩度の調整幅を持たせる事の必要性を認識していたことを示しています。

私は後日、ムーブメントの写真、そして現在修復洗浄中の機械そのものを貴殿にお送りしたいと思います。
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(訳おわり)
(*1)


私はチェンバレンやグールドが「これはアーノルドでしかあり得ない(it can only be an Arnold.)」というのならその通りだろうと思います。特にグールドの挙げた根拠は説得力があります。また同じくグールドの1940年の注釈によれば、

「このバランス(ホイール)はハリソンのNo.4に使われているものの殆ど複写である。コンペンセーションカーブも同様である」
原文 "The balance was almost a facsimile of that used on Harrison's No.4 - so was the compensation curb..."後略

との事であります。コンペンセーションカーブは構造も長さも殆どH4と同じだったそうです。ジョン・アーノルドがクロノメーターの実機製作を始めた最初期においてはジョン・ハリソンのH4を参考にした、もしくはその模倣から出発したのは明らかというべきでしょう。ただ、脱進機そのものの構造についてはハリソンのものを全く参考にしていない点は注目に値します。

さて、ここで大問題となる事がひとつ。それは「何故ジョン・アーノルドはH4の構造を知る事が出来たのか?」という事です。実機研究なくして「殆ど複写」という程の機構の実現は困難な筈ですが、そもそもジョン・アーノルドは1765年のH4の内部構造公開に立ち会っておりません。公式的にはジョンはH4の内部構造を知り得る立場に無いのです。それでは何故アーノルドはハリソンH4の構造を知る事が出来たのでしょうか?

(つづく)

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(*1)
この手紙はマーサー本のP.16-17に紹介されています。「デタッチド・シリンダー脱進機」の構造については英文を読む限り、おぼろげにしか判りません。特にエスケープ・ホイールを止めるアームの構造が不明確です。残念ながら第二次大戦中にこの「アーノルド・プリミティブ・クロノメーター」は失われており、現在ではそれを確かめる術がありません。

また、ディティシャイムが自分の著書にグールドから供給された写真を使用したかどうかも不明。ネットで検索するとディティシャイムのいくつかの著作が見つかりますが全部フランス語である上に、11,200ドルもしたりするのでとても購入する気になりません。

余談ですがこれはコマンダー・グールドがチェンバレンと友人だった事、そしてアフィックス・バランスで有名なパウル・ディティシャイムとも親交があった事を示す興味深い手紙だと思いました。チェンバレンというのは"Major" Paul M. Chamberlain、有名な"It's About Time"の著者です。

尚、Clutton & Danielsの著書"Watches"においてもこのデタッチド・シリンダー・エスケイプメントがアーノルド最初のクロノメーターと記載されています。

また、手紙文中にある「王立協会の二つのクロノメーターとは1773年6月以降のキャプテン・クックの南極探検航行供されたアーノルド初期のクロノメーター"No Number"と"No.1"のことです。この二つのクロノメーターについては後日詳説いたします。

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2009年8月15日土曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(5)

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18世紀中盤、ロンジチュード・プロブレムの解決法として最後に残ったのは「月距法(lunar distance method)」と「クロノメーター法(chronometer method)」でした。前者は天文計測によって自船の経度を割り出す方法(星図、天文暦と計算を必要とする手の込んだ方法です。私は正直なところ、この方法をよく理解しておりません)、後者は出発点の時刻に合わせたクロノメーターを船に搭載して、航行先で計測した太陽時とクロノメーターの示す基準時とのずれから自船の経度を計算で割り出すという比較的簡素な方法です。

この時代、大洋を航海する船上において高い精度を発揮するウォッチ(クロノメーター)があれば複雑な天文観測に頼らずともロンジチュード・プロブレムは解決するという事はほぼ判っていました。問題はそれだけの精度を発揮するウォッチを人類は未だ作れていなかった、その精度を実現した者は歴史上かつて誰もいなかったという事です。天文学者たちは「時計のような不安定でいい加減なインストルメントで何が経度が測れるものか」と悪口を言っていました(科学者・アイザック・ニュートンもクロノメーター法に否定的見解を述べた一人。その理由は『そんな精巧なウォッチが製作可能とは思えない』というもの)。

「誰がその精度を達成するのか?」

この問題に最初に名乗りを上げ、素晴らしい実績をあげたのがジョン・ハリソンだったのです。ハリソンのタイムキーパーが叩き出した数値だけを見れば彼は明らかに満額の報奨金を受け取る資格を持っていました。

その資格はもちろん1714年にイギリス政府によって可決され、アン女王の名において施行されたロンジチュード法に由来します。その法律に付随して定められた報奨金詳細は以下の通りです。

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・イングランドから西インドに至るまでの6週間の航海において以下の精度を達成したタイムピースを製作した者には誰であれ記載の報奨金を支払うものとする。

(1)経度1°以内の精度………£10,000
(2)経度2/3°以内の精度……£15,000
(3)経度1/2°以内の精度……£20,000
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上記のうち(3)でものごとを考えると経度にして0.5°という事は時間にして2分という事になります(地球は1時間で15°回転する)。つまり6週間(42日)で2分(120秒)以内という精度が必要とされる訳です。ということは、

→120秒÷42日=2.857秒

つまり20,000ギニーを受け取るためには42日間の平均日差が2.857秒以内のクロノメーターを作って見せれば良いという事になります。1764年のバルバドス航海におけるハリソンH4の平均日差が1.48秒ですからこれは完全に報奨金20,000ギニー満額を受け取る条件を満たしております。しかも条文には"..the reward would be paid to ANYONE producing a timepiece that kept within close limits.."と明記してあるのです。

ところがジョン・ハリソンとロンジチュード委員会との間には積年の確執がありました。ハリソンは委員会の有力メンバーである天文学者たちに憎まれていたため彼らにありとあらゆる難癖をつけられ、その業績を不当に評価され、賞金の満額支払いを拒否されるという不遇をかこつていました。
※ジョン・ハリソンについてのこれ以上の詳細は本トピックの趣旨から離れますので他日、別のトピックを立てたいと思っております。数年前、mixiにて始めかけてあっさり挫折したのですが。


ですがウォッチメーカーたちにしてみればジョン・ハリソンの達成した精度は驚愕以外の何者でもありません。

「一体どうやったらそんな精度が可能なのか?」

ジョン・ハリソンの叩き出した実績を知って、ジョン・アーノルドは時計師として"Precision Timekeeping"に純粋に興味を持ったという事もあっただろうし、腕に自信のある時計師としてのプライドをいたく刺激されて心が騒いだという事もあっただろうと思います。アーノルドの性格を考えると、自分と関係のないところで起こっている一連のインシデンツに彼は一種の焦燥感に似た感情すら抱いたのではないか、私はそのように想像しております。

更に言うならば、ロンジチュード委員会の提示する各種賞金がアーノルドにとってインセンティブとなった可能性も否定出来ません。アーノルドがクロノメーター・メーカーとしてデビューした時点ではジョン・ハリソンはまだロンジチュード・プロブレム解決の懸賞金20,000ギニーのうち10,000ギニーを受け取ってはおりません。ロンジチュード委員会はあれこれと難癖を言い募ってはその支払いを頑強に拒否していたのです。

「まだ10,000ギニー残っている」

ジョン・アーノルドが果たしてそこまで考えていたかどうかは不明です。ですがその巨額の懸賞金とは別にロンジチュード委員会が提示する各種の懸賞金がジョン・アーノルドを鼓舞しなかった事はなかっただろうと思います。この各種報奨金については1848年刊行の"The Chronometer: It's Origin and Present Perfection" (by Thomas Porthouse)という本にいくつかの記載があります。当時の報奨金が一つだけではなかった事が判って非常に興味深く思いました。

私の推測ですが恐らく1764年頃、指輪時計を完成させた後にアーノルドは王宮的なウォッチ製作に対する興味を急速に失い、それに代わるものとして"Precision Timekeeping"に対する研究開発に手を染め始め、以後これに魂を奪われるがごとく急激に没頭したものと思われます。

実際、アーノルドはそれ以降二度と王宮的なウォッチを作る事がありませんでした。ロシアのツァーに「オレにもジョージ3世みたいな指輪時計を作ってくれ」と依頼されても適当な理由を付けて断っています。1770年に英王室に納めた二個目の指輪時計は一個目に比べると出来具合、作風にひどく差があるため別人の作だと考えられています(マーサーによればスイス・エボーシュではないかとの事)。その頃のアーノルドは既にそうしたものに興味が持てなくなっていたのでしょう。それよりタイムキーピングの実験に自分の時間を使いたかったのではないかと思います。


ところで "Precision Timekeeping"の要諦は一に高性能脱進機の実現にかかっております。ここでいう高性能脱進機とは具体的には"Detached escapement"と"Temparature compensation"の2点を満足させたものであります。

"Detached escapement"についての詳説はとても簡単に済むものではないので別の機会に譲りたく思いますが手短に言うとバージ脱進機やシリンダー脱進機は別名"frictional rest escapement"と呼ばれ、その機構上エスケープホイールが停止(ロック)している間、バランスホイールの回転が脱進機構に起因するフリクションから逃れることがありません。これは置き時計で言えば振り子の往復運動に常に物理的なブレーキをかけているに等しい状態です。これが高精度達成の阻害要因となっていました。

それに対して"Detached escapement"(デタッチド脱進機)とはピエール・ルロアやトーマス・マッジの時代以降に出て来たデテント式、レバー式などがその代表ですが、エスケープホイールが停止中でもバランスホイール自体は脱進機構に起因するフリクションにさらされる事無く自由に運動をする事が出来ます。このフリクションロスの無い事がバランスホイールのヴァイタルな回転を促し、高精度を達成する上で非常に有利な要素となるのです。この頃の Precision Timekeeping を志す時計師たちは皆、この「デタッチド脱進機」を夢見ておりました。

勿論ジョン・アーノルドが高性能脱進機を志した時代はまだまともに「デタッチド脱進機」が動いていなかった時代、トーマス・マッジがレバー脱進機を考案して数年が経過したくらいの「デタッチド脱進機黎明期」で皆、手探りで試行錯誤をしていたのでありました。ですが彼のプロトタイプ・クロノメーターを見る限りアーノルドが早い時期から「デタッチド脱進機」を指向していたのは確実と思えます。

"detached"というのは「脱進機の動作(エスケープホイールのロック、アンロック)とバランスホイールの自由振動との両者がインパルスのある瞬間を除いては『分離(detach)』している、あるいは『非接触(unconnected)』である、という風に理解していただいていいと思います。アーノルドは自分の脱進機を人に説明するのに「これはunconnectedなんだ」という言葉を使っていた形跡があります。

(つづく)
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ブレゲとジョン・アーノルド(4)

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●ジョン・アーノルド、クロノメーターに心を騒がす

超精密な指輪時計をつくっていた男がクロノメーターの製作を手がけるというのは随分な方向転換のように思えます。ですが彼は1770年を境に王宮的な時計製作の道を全く放棄してしまったかのように見えます。そして突然クロノメーター・メーカーとなり、以後1780年代中盤まで全身全霊をかけてクロノメーターの開発に打ち込む事となります。一体何がアーノルドにそのような方向転換をさせたのでしょうか?

ジョン・アーノルドの経歴を見ていて不思議に思うのは「ワークショップを構えた1762年から1768年までの6年間、アーノルドは一体何をしていたんだろう?」という事です。この間、1764年の指輪時計以外の作品の話は一切出て来ません。最初の2年間は指輪時計に没頭していたとしても、その後の4年間はジョン・アーノルド個人として時計らしい時計を作った形跡が全く無いのです。"Jn. Arnold London"と刻印されたウォッチが世の中に登場するのは1768年以降の事であります。またクロノメーターのプロトタイプが完成したのは1768〜1769年と考えられています(グールド説)。その間アーノルドは一体何をしていたのか?

恐らくアーノルドは"Finisher"をやっていたのだと思います。"Finisher"というのはコーディネーター(スイスでいうエタブリスール)の持ち込むラフ・ムーブメントを仕上げて納める仕事です。それに加えて時計修理や時計師仲間の下請け業務も行っていた事でしょう。どれも食べて行く為に必要で大事な仕事です。そして時折王宮に出かけてジョージ3世の時計の面倒を見たり、ボタンを作ったりもしていたのでしょう。ただこれらは超有能なアーノルドにしてみれば難易度の低い、言わば退屈な仕事だったのではないでしょうか。

そんな生活をしながらもアーノルドがある頃から自由な時間の大半を使って脱進機の基礎研究など、時計師としての根幹的な技術研鑽に熱中していたのは疑いが無いと私は考えています。何故ならアーノルドのクロノメーターは最初から優秀だったからです。

アーノルドの製作したクロノメーターはキャプテン・クックの船団に載せた3基を除いて全て最初から高性能を発揮しました。クロノメーター・メーカーとして名乗りを上げる前に集中的な基礎研究、研鑽の積み重ねが為されていたと考えるしかありません。

アーノルドをそうした基礎研究、研鑽に駆り立てたものは時代の空気、あるいは時代の熱気では無かったかと思います。ちょうどこの頃は「ロンジチュード・プロブレム」が解決の端緒につきかけた頃で、世の人々は大きな関心をもって事態の成り行きを見守っていました。

※いくつかの本を読むにこの頃、ロンジチュード問題は知識階級の人々を中心にちょっとした熱狂状態にあったものと私は考えています。

「オレ抜きでこの話を進めてもらっては困る」

とまで思ったかどうかは判りませんが、アーノルドは腕に覚えのある時計師としてこの問題に関心を持たない訳にはいかなかったのでしょう。

アーノルドが独立したワークショップを持ちながらも自分の名前の入ったウォッチを一切製作しなかった6年間、ロンドンでは高性能なジョン・ハリソンのクロノメーターNo.4(通称H4)が何かと世間の耳目を集めていました。

ここでアーノルドが工房を構えてからクロノメーター・メーカーとして名乗りを上げるまでの8年間にクロノメーターの世界で起きた −そして同時にアーノルドの心を騒がせたであろう− 目を惹く出来事を見てみましょう。

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・1762年
ジョン・ハリソンの息子ウィリアムがH4を携えてジャマイカからポーツマスに帰還。途中嵐に見舞われたため航海は往復で5ヶ月にわたるものとなったがその間のH4の成績はオーバーオールで「113秒の遅れ」というものだった(往路については僅か5秒の遅れだった)。

・1764年
H4が再び実航海テストに供される。イングランド〜バルバドス〜イングランドという往復経路の全112日間の旅程におけるH4の成績は「166秒の進み」というものだった。振動、温度変化とも条件の厳しい大洋航海中の船上にありながらこのウォッチは1日に1.48秒しか狂っていない計算になる。だがロンジチュード委員会はそれでも賞金の支払いを拒否したばかりか今度はH4の構造と製作方法をロンジチュード委員会に公開する事をハリソンに迫った(交渉不成立)。

・1765年
この年、ロンジチュード委員会はH4監査のための小委員会を設けてハリソンにH4の内部構造公開を6日間に亘って行わせた。その上でネヴィル・マスケリンはラーカム・ケンドールに構造公開されたH4の複製製作を命じる。天文学者マスケリンのハリソンへの意地悪ぶりは芸術的。

・1766年
マスケリン、ハリソンの許からH1、H2、H3を持ち去る。非常に悪辣。

・1769年
ケンドール、H4の複製を完成させる。高性能を発揮。
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※画像はH4のダイヤル側とムーブメント側。ハリソンはジョン・ジェフリーズのウォッチからスモールサイズ・クロノメーターH4の着想を得たと言われる(と言っても直径は13cmほどあるとのこと)。








「112日の航海で僅か166秒の狂いだって?」

ジョン・アーノルドは1764年初頭にもたらされたのそのニュースに重大な関心を寄せたに違いありません。

「ハリソン氏のH4はそこまでの精度を達成しているのか」

ジョン・アーノルドにとってそれは非常な驚きだった事でしょう。その時、アーノルドはちょうどジョージ3世に献呈する指輪時計の最終仕上げにかかっている頃でした。

122日で166秒。

この数字は指輪時計の仕上げにかかっているアーノルドの頭に度々去来した事と思われます。この精度を振動条件も温度条件も劣悪な船上で達成したという事は驚き以外の何者でもありません(据え置き型クロックであれば当時でもJohn Sheltonあたりの時計師なら達成可能な精度だったと言いますが、船上時計としては驚異的な精度です)。

「ではハリソン氏が人類で初めてロンジチュード・プロブレムを解決した人物という事になるのか」

アーノルドはそんな事を思ったかも知れません。

(つづく)
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2009年8月13日木曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(3)

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●ジョン・アーノルドの独立、そして王宮デビュー

さて、そんなジョン・アーノルドでしたがひょんな事から漂泊の時計師生活に別れを告げてワークショップを構える事になります。

ある時アーノルドはウィリアム・マクガイヤという人に頼まれて彼の所有するリピーターウォッチを修理しました。アーノルドにとっては何でもない事だったのですがこのマクガイヤ氏がアーノルドの技術にいたく感心してこう申し出たのです。

「ジョン、君ほどの腕のある者がどうしてジャーニーマンをやってるんだい?良かったら自分の工房を持ってみないか。資金は私が貸そうじゃないか」

アーノルドも「いつまでもこんなんじゃいけない」と思っていたのでしょうか、彼はこの話に乗ることにしました。これが1762年5月、ジョン・アーノルド26歳の時の事でした。ワークショップを構えた場所はロンドンのDevereux Courtというところであります。

そしてその2年後の1764年、驚いた事にアーノルドは突如として王宮デビューを果たします。国王ジョージ3世に指輪型の精密なウォッチを献上したのです。マーサーによれば1764年の"Coventry, Warwick and Birmingham Magazine"という当時のタウン情報誌?に以下のように書いてあるそうです。


「この月曜日、コベントリーのアーノルド氏は指輪の中に入る程に小さく新奇なリピーターウォッチを国王陛下に献上した。国王陛下の命により作られた、指輪の中にはめ込まれた新奇なウォッチを携えて国王陛下を待つ間、アーノルド氏はウェールズ公妃、メクレンブルク王妃に紹介される光栄に浴した。お二人はこの 優れた小さな機械に慈悲深くも賞賛の意を表された」

この時アーノルドは随分晴れがましい思いをしたもののようですが、このウォッチが有名なアーノルドの「指輪時計」(これは1個目のもの。2個目の指輪時計は1770年)です。話によればムーブメントの直径は9mm程度という小さなものなのにハーフ・クォーターのリピーターだったそうです。


※画像は1778年1月の"Westminster Magazine"の一部です。本文とは関係ありませんが「フランス宮廷からのプレゼントとしてシャーロット王妃に最高のウォッチが贈られた」とか「そのウォッチを作ったのはイギリス生まれのフランス国王専属ウォッチメーカー(Gregsonの事です)だ」とか書いてあります。当時、イギリスの主要都市においてはこのような「瓦版」とも言うべきタウン誌?が発行されていて、街のニュースやインシデンツを掲載していたもののようです。アーノルドの指輪時計もこんな感じで"Coventry, Warwick and Birmingham Magazine"のページを麗々しく飾ったのでしょうね。

「いくらジョン・アーノルドだからって一体全体そんなものの製作が可能なもんだろうか?現代でも困難な仕事ではないか」

と私などはこの指輪時計の仕様について怪しんだりしたのですが、当時Woodsという人が書いた"Clocks and Watches"という本に"only a third of an inch in diameter"と書いてあるとのこと。1764年の"Gentleman's Magazine"などという情報誌?にも同様の事が記載されているそうですので事実としてそういう事があったのでしょう(ひょっとしたら当時の1インチは現代の1インチより大きかったのかも知れません)。

Wood氏によれば「アーノルドはこのデリケートで傑出したウォッチの製作のために殆ど全てのツール類の製作から始めなければならなかった」という事だったようなので相当小さなウォッチだった事は確かです。こういうウォッチを作るのですからアーノルドが傑出した腕の時計師であったことは疑いありません。

工房を開設して2年そこそこの青年時計師がいきなり王宮デビューを果たすに至った経緯は全く判りません。本当に全然判らないのです。想像に過ぎませんが工房開設後のアーノルドは或いは時計修理稼業の傍ら極小ウォッチの製作に没頭していたのでしょうか。ワークショップに出入りしてその過程を目にした人々の口から「何だか凄いウォッチを作っている奴がいるぞ」と広がった噂がやがて科学や技術に興味を持つ国王ジョージ3世の耳に入るところとなり、

「どれ、そのアーノルドとやらを呼んでその時計を見てみようではないか」

という具合に声がかかったのかも知れません。

ジョージ3世はその指輪時計に大いに驚きこれを賞賛したとの事です。同時に国王は自分と同年齢の時計師アーノルドの事が気に入ったようでこれ以降、アーノルドを身近に置いてちょっとした友人のような扱いをしていた形跡があります。

1770年刊行の "The London Museum of Politics etc."という本に「自らを『王の友』と呼ぶ一党のリスト」という記事があってそこにジョン・アーノルドの名前が「アーノルド、時計およびボタン製作者」として掲載されている事からもそのように想像される訳です。

※ちなみに「王の友」(The King's Friends)というのは歴史書によれば「国王ジョージ3世によって買収された議員たちで構成された組織で国王の政策実現に協力した」という結構ナマグサイ一団だったらしいです。が、アーノルドの例を見るに元々は本当に国王の友人たちの楽しい集まりだったのかも知れません。肖像画は国王ジョージ3世。

ジョージ3世は「ボタン収集」が趣味だったそうです。世の中にそんな趣味があるのかと思いますが、フランスのルイ16世なども錠前作りが趣味だったと言いますから国王というものも立場上色々と難しい事が多くてどうしても変わり者になってしまうのでしょうか。いずれにしてもアーノルドは精密な指輪時計を作る程の金属加工技術を見込まれてボタン製作をさせられていたらしい。

「アーノルド、今度はこんなボタンを作ってくれないか」

国王からそんな依頼を受けて、

「陛下、私は本当は時計師なのですが」

などと軽口を言いながら時々ボタンを作ったりするような楽しい日々をアーノルドは過ごしていたのでしょうか。

ついでに言えば当時の英王室ではドイツ語での会話が標準だったそうです。これは先々代の国王ジョージ1世および先代のジョージ2世がハノーファー出身で英語を解さなかったためです。アーノルドは若い頃の放浪時代にオランダ語を身につけていたためドイツ語を話す宮廷人との意思の疎通にそれほど困る事は無かったようです。時計の修理などに際して「あのドイツ語を解する時計師アーノルド」として宮廷人たちからも何かと重宝されていたであろう事は想像に難くありません(ただしジョージ3世自身は英国生まれの英国育ちで逆にドイツ語が不自由だった模様)。

そのまま行けばアーノルドは「王の友」として、王室御用達の時計師として、それなりの人生を過ごす事が出来たようにも思えます。ところがある頃、具体的には1770年を境にアーノルドの人生は大きく転回する事になります。この年、ジョン・アーノルドはロンジチュード委員会に自らの製作したプロトタイプを持って乗り込み、クロノメーター・メーカーとして突如、名乗りを上げたのです。

(つづく)
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2009年8月12日水曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(2)

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●ジョン・アーノルド、青年時代の放浪

世界最優秀のクロノメーターを製作する男、というと何となく冷静沈着で理知的な人物を想像しますが "John Arnold & Son, Chronometer Makers 1762-1843" (by Vaudrey Mercer/以下『マーサー本』) という本に紹介されているジョン・アーノルドの人生の軌跡を辿ると、実際の彼は案外血の気の多い、直情径行の人だったのではないかという印象を持ちます。

同書によればもともとジョン・アーノルドは父親(伯父という説もあり)の許で時計師修行をしていましたが、18歳前後のある時、その父親と口論をして立腹の余り工房を飛び出し、そのまま逐電してしまいます。それで何と海を渡ってオランダのハーグまで行ってしまった。

何故オランダなのか?理由はさっぱり判りませんがその地で訳の判らない言葉を学びながら結局2年ほどウォッチメーカーの手伝いをしていました。

そして1757年、アーノルドはイギリスに戻って来ますが父親の許には戻らずその後5年間ほど、ジャーニーマンとしてイギリスの各地を渡り歩いていたそうです。放浪癖のある人だったのかも知れません。若き日のジョン・ アーノルドは時計職人でありながらも場所によっては鉄砲鍛冶職人などをして働いていたそうです。

これはアーノルドが技術の幅の広い男だったという事を示しているのみならず、そもそもこの頃はジャーニーマンの職能が未分化な時代だったという事をも示しているように思います。ジョン・アーノルドの生きた時代の雰囲気が少し理解出来るような気がして興味深く思いました。

時代の雰囲気、と言えばマーサー本に18世紀の伝説としてソールズベリーというロンドン西方の街にいた「アーノルド」という名前の無謀な時計師の話が紹介されています。その街には「ソールズベリー塔」(Salisbury spire)という高さ132メートルの塔があったのですがこの塔の先端には風見鶏が設置されていて、これをどうしても定期的にメンテナンスする必要があったのですがこの仕事が大変だったそうです。

というのも4分の3の高さまでは塔の内部の梯子を上って行くことが出来るのですがそこから上に登るには小さなドアを開けて外に出る必要があります。そして強風に吹かれて恐ろしい思いをしながら石造りの塔の外側に叩き込んである鉄の「持ち手」を掴んで塔の先端にまで登るのです。そこには何の安全具もありません。足を滑らせたが最後、132メートル下の地面まで真っ逆さまです。そうした状態でジャーニーマン達は風見鶏に注油作業を行っていたそうです。

「あんな恐ろしい仕事は無い」

と街の人々は話し合っていたらしい。
で、18世紀中盤のある日のこと。ソールズベリーのとある居酒屋において、

「ウォッチと道具を持ってソールズベリー塔のてっぺんに登って、その場所でウォッチを正しく分解整備して1時間以内に戻って来れるか」

という賭け話が盛り上がったのだそうです。恐らく言い出しっぺすら本気にしない、酔っぱらいの時計職人達の戯言だったのでしょう。ところがアーノルドという名前の時計職人が、

「よし、オレがやってやる」

そう名乗りを上げたそうです。

「おいおい大丈夫かよ」
「本気かよアーノルド」

そんな空気の中、そのアーノルドは恐怖のソールズベリー塔にすいすいと登って尖塔の頂点にたどり着くと風見鶏の支柱に自分の身体を縛り付けました。そしてその状態でウォッチのメンテをして後、悠々と降りて来ると「どうだ」とばかりメンテの終わったウォッチを皆の前に差し出して賭け金をせしめたというのです。

※画像はネットで検索したSalisbury Spireです。恐らくこの建物の事でしょう。よくもこんな建物の頂上でウォッチ修理などする気になったものです。


このアーノルドという人物が名前も時代も場所も職業も後の世界的クロノメーター作家、ジョン・アーノルドと非常に符号する点があるのでマーサーは「ひょっとしたらこの無謀なアーノルドとは若き日の放浪中のジョン・アーノルドなのではないか」と考えたようです。

そこでマーサーはこのアーノルドについて精力的に調査をしました。その結果、この無鉄砲なアーノルドが世界的クロノメーター作家のジョン・アーノルドと同一人物であるかどうかについては疑問が残る、という結論に達したとの事。ですが私は当時の時代的雰囲気を伝える非常に興味深い話だと思いました。ジョン・アーノルドはこのような万事何かと粗削りな時代の雰囲気の中で悩み多き青年時代を漂泊の時計師として過ごしていたのでしょうか。

(つづく)
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ブレゲとジョン・アーノルド(1)

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●オルレアン公、ジョン・アーノルドを訪ねる


ブレゲの生きた時代は時計史上の巨人とも言うべき時計師が数多く輩出した時代でしたがそのなかでもブレゲが最も敬慕し、かつ影響を受けたのは或いはジョン・アーノルド(1735 or 1736-1799)ではなかったかと私は考えております。

この二人が友人となるきっかけを造ったのはオルレアン公(Duc d'Orleans/Louis Philippe II /1747-1793)という人であります。後にフランス革命の動乱の中、ギロチンの刃の露と消える運命を持つこの裕福な貴族はかなりの時計好きだったらしく、1780年にブレゲ最初期のペルペチュエルを入手したと考えられています。

エマニュエル・ブレゲによればマリー・アントワネットがはじめてブレゲのペルペチュエルを入手したのは1782年10月近辺との事ですからそれよりも早く入手していたという事になります。オルレアン公はマリー・アントワネットに敵意を持っていたといいますから「王妃より早くペルペチュエルを手に入れたい」と思ったりしたのでしょうか。

※画像はオルレアン公。当時フランス随一の富裕な貴族だったとのこと。

オルレアン公所有のペルペチュエルは以下の機能を備えたものでした。



・プラチナウェイトによる振り子型自動巻(Perpetuelle)
・ミニッツリピーター
・レバー式脱進機(*1)
・パラシュートサス(*1)
・温度補正つきバランス(テンワ)
・パワーリザーブ表示
・温度計



ブレゲがペルペチュエルを初めて世に問うた頃の最高の野心作のひとつ、当時最高級の複雑時計と言えるでしょう。オルレアン公はこの精密なブレゲ・ペルペチュエルをいたく気に入って外出の折りに頻々これを携行していたようです。


※写真は元オルレアン公所有のブレゲNo.54。このウォッチは長らく行方不明でしたが1949年にひょっこりとパリのブレゲ工房のジョージ・ブラウンの元に修理依頼で入って来たのだそうです(*1)。



オルレアン公はロンドンと縁の深い人物で度々ロンドンを訪れておりましたがその何度目かの外遊の折、彼はロンドンの著名な時計師、ジョン・アーノルド (John Arnold / 1736-1799)を訪ねます。これが何年頃の事か正確な記録が残っておりませんが恐らくは1785〜1786年あたりの事ではなかろうかと私は考えて おります。

ジョン・アーノルドはこの頃既にヨーロッパ最高のクロノメーター製作者の一人として名声を確立しており非常な尊敬を集めておりました。そんな事もあって時計マニア?でもあるオルレアン公は高名なジョン・アーノルドと時計談義をしたかったもののようです。相手が有名なフランスの貴族とあってはジョン・アーノルドもうやうやしくこれをお迎えせざるを得なかったのではないでしょうか。

この時の二人の会話の内容は伝わっておりませんがクロノメーターの話題を避ける事は無かったと思われます。何しろ目の前にいるのはイギリス海軍のキャプテン・クックやキャプテン・フィップスらが冒険的な大航海に供用したクロノメーターを製作した本人なのです。フランス海軍を率いた経験を持つというオルレアン公がクロノメーターに深い興味を持ってジョン・アーノルドにあれこれ尋ねたのではないかと想像する事は許されるでしょう。

例えば、"The Chronometer: Its origin, and present perfection"(by Thomas Porthouse, 1848年刊行)という本を読むと「(かつて)オルレアン公はロンジチュード問題解決に100,000リーブルの賞金を出した」という記述を見つける事が 出来ます(p.9)。どの代のオルレアン公がこの懸賞を提示したのかは定かではありませんが(『オルレアン公』は襲名)その家系の当主であればクロノメーターに興味と関心を寄せるのは当然の事に思えます。オルレアン公はフランスのクロノメーター作者であるルロアやフェルディナン・ベルトゥについての意見を求めてジョン・アーノルドを困らせたりしたかも知れません。


さて、和やかに歓談が進むうち、やがてオルレアン公は懐中からひとつの時計を取りだしてアーノルドに見せました。

「これはパリのブレゲという時計師が私のために造ってくれた時計であるが貴君はどう思われるか。とくとご覧いただきたい」

このブレゲが恐らく前出のNo.54だと思われます。

「ブレゲ、その名前は私も聞き及んでおります。では拝見いたしましょう」

ジョン・アーノルドはブレゲのペルペチュエルをオルレアン公の手からうやうやしく受け取りこれを観察する事しばし、やがてその顔色はみるみると変わって参ります。

「これは一体…?」

ジョン・アーノルドはこのブレゲの素晴らしさに非常に衝撃を覚えると同時に感嘆、賛美の念が湧くのを禁じ得なかったと伝えられております。アーノルドはオルレアン公にこの時計に対する賞賛の辞を伝えると同時に製作者ブレゲの人物について熱心に尋ねたもののようです。恐らくブレゲが誰に師事したかなど経歴についても聞いたりしたのではないでしょうか。



「そうかそうか、ワシのブレゲにはジョン・アーノルドもびっくりか」

ウワッハッハ、とオルレアン公が上機嫌で帰るのをうやうやしく見送るジョン・アーノルドでありましたが、バタン、とドアが閉まった次の瞬間ジョン・アーノルドはくるりと振り返ると息子の名を呼びました。

「ジョン!息子のジョン・ロジャー!」
「はいパパ」
「パリにブレゲという驚いた時計師がおるから今から会いに行く事にした。支度しなさい」
「今からパリに?工房はどうするんですかパパ?」
「工房は一時休業にしよう。さあ急ぎなさい」

という訳で、ジョン・アーノルドは息子ジョン・ロジャーを連れて当時のドーバー海峡を渡る旅の苦労も省みず、いてもたってもいられないという風情でパリに急行したとのこと。この殆ど性急とも言える行動、大時計師らしからぬフットワークの軽さであります。ジョン・アーノルドはブレゲの一体何がそんなに気に入ったのでしょうか?

その事を考えるにあたっては、まずジョン・アーノルドという時計師についての多少の理解が必要であるように思えます。ここでブレゲと出会うまでのジョン・アーノルドがどのような人生を過ごして来たか、ジョン・アーノルドとはどんな男だったのかという事について手短に振り返ってみる事にしましょう。

※上の肖像画は左からジョン・アーノルド、息子のジョン・ロジャー・アーノルド、妻のマーガレット。

(つづく)
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(*1)に関する付記



このNo.54の仕様はいくつかのブレゲ伝記本に載っているものですが実はこのウォッチ、少しばかりおかしいのです。このウォッチがはじめてオルレアン公の手に渡ったのが1780年であったとしてもその後、この個体には大幅な改変が加えられている形跡があります。

まず、1780年の時点でブレゲが既にレバー式脱進機を採用していたとは考えにくいという点。他に現存するブレゲのウォッチでレバー脱進機が採用されている一番古いものは1786年製作のNo.3-4/86(1786年4月製作のNo.3という意味)です。上記No.54の1780年という製作年が正しいとするとその後6年間レバー脱進機を作っていないのが不思議。

そもそも1780年と言ったらレバー脱進機の発明者であるトーマス・マッジ がジョサイア・エメリーに「お前、オレの発明を真似しただろう?」と訴え出てすった
もんだしていた頃であり、まだレバー脱進機という方式そのものがよちよち歩き、黎明の頃であります。この時点でブレゲがレバー脱進機を作っていた、というのは時代考証的に少々無理があるのではないかと思います。ブレゲには伝聞、簡単な図解以外にレバー脱進機の情報を得る方法は無かったのではないかと思います。

パラシュートについても微妙に疑問が残ります。というのもジョージ・ダニエルズの研究によればパラシュート機構を備えたブレゲのウォッチが現れ始めたのは1790年頃からだという事だからです。となると No.54のパラシュートはそれより10年ほど出現が早いという事になります。

ただ、ブレゲ自身は晩年に「私は1780年にオルレアン公 とマリー・アントワネットにペルペチュエルを作った。どちらもパレシュット(pare-chute)をつけていた」とはっきり書き残しています。だからパ レシュット(パラシュート)の開
発は後年の我々が考えているより10年程早かった、ただ現存している個体が確認出来ないだけだ、という可能性があります。 その一方でこのジョッティングの内容が既に老境にあったブレゲの記憶違いである可能性も否定出来ません。このあたりの判断はとても難しいです。

そしてこのウォッチの最高最大の矛盾点はプラチナウェイトに刻印されたインスクリプションにあります。"Faite Par Breguet Pour Mr. le Duc Dorleans en 1780"(1780年にオルレアン公のためにブレゲによって製作された)とありますが1780年の時点ではオルレアン公の名は実は"Louis- Philippe d'Orleans"といってまだオルレアン公国を相続する前なので"Duc"(英Duke)の称号を得ておりません。"Duc"の称号を得るのは1785年の事です。だからこのインスクリプションは1785年以降に新たに彫られたものだと考えられる訳です(あるいはウェイトごと交換したかも知れません)。

このウォッチは全体的な特徴が初期ペルペチュエルというよりはむしろ1787年以降にシリーズプロダクションとして作られた31 個の後期ペルペチュエルに似ています。ですが1787年以降のブレゲ新帳簿にこのウォッチは記載されていないとのこと。だからこのウォッチのオリジナルが 1780年というのは事実らしく思えますが1780年代中後半に脱進機まわりを交換するような大改造が施されたというのも恐らく事実なのではないかと想像します。

「ブレゲ君、メンテナンスついでにこのウォッチに君の新しい脱進機やら何やらを取り付けてくれんかね。ああ、あとあれも頼むよ、時計落としても壊れない仕掛け。何つったっけ、パレロワイヤル?」

「パレシュットでございます」

「そうそう、それ。パレロワイヤルはウチの庭だった。とにかく頼むよブレゲ君。それからボクの名前も彫っておいて」

1780年代後半にブレゲはオルレアン公からそんな依頼を受けたのではないでしょうか。

そんな訳でジョン・アーノルドがオルレアン公に見せられたブレゲはもう少しシンプルなものだったかも知れません。オルレアン公は複数のペルペチュエルをブレゲに注文しているようなので別の仕様のペルペチュエルと混同して話が後世に伝えられたのかも知れませんね。


※ ちなみにパラシュートは現在"Parachute"と通常は表記しますがブレゲ本人はどうもジョッティングには"Pare-Chute"と書き殴っている模様です。"Pare-"は「防ぐ、避ける」という意味の接頭語。"Chute"は「落下」という意味。共にフランス語。まあどうでもいい話なので以後は 「パラシュート」という用語に統一しようと思います。







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