2009年6月1日月曜日

デュボア・デプラ (3)

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●マーセル・デプラ悩む


DD本によればマーセル・デプラが生まれ育ったジュウ渓谷のリユーの地に電信が導入されたのは1867年、電話が導入されたのが1897年だったそうです。郵 便制度も導入も同じ頃。村の主要街路に2連のガス灯がともったのもこの頃。電力が導入されたため各家庭に水道が通った(多分ポンプで水を汲み上げて高台に 貯水出来るようになったんでしょうね)。1886年から1899年にかけては鉄道が敷設された、とあります。

こうした電信・電話・鉄道の導入がマーセル・デプラ独立の伏線の一つであります。ちなみに電線が各家庭に張り巡らされたのは1904年頃。ラジオ受信は1924年頃。

1899 年の時点でマーセルはモンティリア時計製造工場のシェフ(工場長)をやっておったのですがその頃にマーセルに対して二つの申し出がありました。一つはモラ (Morat)という村だか町だかのお役人が持ってきた話で「あんた、ウチの村の時計工場を指導して立て直してはくれんかね」というなかなか魅力的なも の。もう一つはマーセルの生地に近いらしいVieux-Moutier(多分そういう地名)にあるパウル・オーベール&サンズ(Paul Aubert & Fils)というところで複雑時計の製造を指導するというもの。

25歳の若者にこのような重要なオファーが立て続けに来るという事自体が当時のマーセルの評判の高さを窺わせます。

「モンティリア時計製造のシェフのマーセル・デプラっちゅう男は天才的な奴らしいがや」
「おお、クロノグラフの鬼だっちゅう話だがや」

くらいの評判はあったのかも知れません。

マーセル青年は随分悩んだ事でしょうが彼は結局パウル・オーベールで働く道を選びました。これは私の全くの推測ですがマーセルは恐らくパウル・オーベールの業務の指向性に興味を持ったのではないかと思います。

こ のパウル・オーベールの工場が目指していたのは「(クロノグラフ)ムーブメントの完成品製作」でした。完成品のムーブメント、つまりポン付け可能な状態に 完璧に仕上げられた製品を作る、という事です(*)。マーセル・デプラはこのパウル・オーベールの方向性に「新しい時代の空気」を感じていたのではないで しょうか。

このパウル・オーベールの方向性は非常に興味深いものです。その頃はスイスにおいても時計製造手法の近代化、機械化が叫ばれて いた時期でした。直接の契機は1876年のアメリカ建国100周年記念フィラデルフィア博覧会であります。これを視察したファーブル・ペレ、ジャック・ダ ビドらによる、

「我々スイスの時計産業は機械化されたアメリカの時計産業に比べて激しく遅れている。今のままでは我々は滅びる。我々は自らを変革する事によってしか生き残る事は出来ないのだ」

という提言をきっかけとしてスイスの時計産業は大規模かつ長期の変容時期に突入いたしました。パウル・オーベール工場の目指した方向性がジャック・ダビドらが提唱した変革の流れがジュウ渓谷において発現したものである事は疑いようの無いものと考えられます。

「これは新時代のやりがいのある仕事だ」

マーセル・デプラ青年はそのように思ったかも知れません。マーセルにはその手法を「新時代のもの」と考えるだけの理由があったと思います。


●A brief look back to the TRADITIONAL watchmaking in Switzerland

このあたりの「スイス時計産業の新時代への変容」話を始めると「スイス時計の分業の歴史」についての話になりもの凄く長くなりますし、デュボア・デプラの話 を離れてしまいます。これについては別の機会に譲るとして、現時点では手短な例として左の画像をご覧いただきたいと思います。

これは1890年代のヤーゲンセン(Jürgensen)の時計製作台帳の或る1ページでそこには"No.13884"というムーブメントの製作に必要となった工程と費用が記録されております。

こ れが19世紀末のスイス時計産業の分業制度の実態であります。分業工程だけでもざっと20以上あり、それぞれの工程ごとにそれぞれの業者または作業者に 支払った金額の明細とトータルが記録してあります。当時の時計製作がいかに手間ひまのかかるものだったかがおわかりいただけるでしょうか?

この台帳から読み取れるのはこのヤーゲンセンは、

・ムーブ外径20リーニュ
・クロノグラフ
・5ミニッツリピーター
※"Repetition V minutes"の"V"は"cinq"の略号だろうと思います。

の 超高級品だという事です。またエボーシュの納入業者がピゲ・フレール(Piguet Frere/ピゲ兄弟社)であった事も読み取れます。ピゲ・フレールとはその歴史を1770年代にまで遡る事の出来るジュウ渓谷の名門のムーブメント製造業者であります。歯車(Pignon & Roues)もフィニサージュ(Finissage/仕上げ)もアロンディサージュ(Arrondissage/面取り)もまとめてピゲ・フレールが行っ ています。

ヤーゲンセン銘でもムーブメントの実際の仕上げは優秀な外部業者に任せてしまう例があったという事をこの資料は示していると考えられます。特にクロノグラフつき5ミニッツリピーターというような複雑系の場合、餅は餅屋という事でピゲ・フレールに任せてしまうという事がままあったという事ではないでしょうか。

その他レパサージュ(Repassage/再組み立て)がエミーユ?・ペルレだとかレグラージュ(Reglage/歩度調整)がシャルル・デュボアだとか金メッキがA.ジャコーだとか、職人さん達の名前がいちいち由緒正しげで強そう?なのが実に興味深いです。

「こういう名前の奴らが作ったウォッチだもの、超高級品に決まってるじゃないか」

と私などはつい思ってしまいます(バカですね)。

ち なみにこのウォッチのエボーシュ代金590フランは異常に高価だと思います。ヤーゲンセンの他の台帳を見るとピゲ兄弟社の並品?で77フランとかちょっ と高級そうなオーベール兄弟社(Aubert Freres)ので300フランというような数字を目にします(エボーシュ代金とフィニサージュ代金、歯車類代金の合計)。それよりもうんと高価なウォッ チですからマニアが見たら陶然たる思いに捕われるような高級品だったのではないでしょうか。



お そらく台帳の超高級ウォッチはこんな感じだったのではないかと思います。ただ台帳の金メッキの項目"Dorure de mouvement"の"Dorure(金箔/金泥)"がペンで消してあって何か達筆すぎて読めない文字に書き換えてあるので金色ではなかったかも知れま せん。









ちなみにヤーゲンセンのエボーシュは左の写真みたいな感じ。いわゆるヤーゲンセンタイプと言われるもの。ウルフティースのホイールが見えます。これはオーベール兄弟社製。

このエボーシュは割と最近発見されたものです。オーベール兄弟社の末裔で郵便局に勤めるレオン・オーベール氏がご先祖様が使っていた古い家屋の修繕をしていたら色々な物の間から古くて重いブリキの箱が出てきました。

「何じゃこりゃ」

と思って埃を払って蓋を開けて中を見ると木箱があって、木箱の中から写真のエボーシュが2ダース出てきたそうです。木箱には右の写真のような"JULES JURGENSEN LOCLE(SUISSE)"という焼き印がありました。



「兄ちゃん、ヤーゲンセンさんが『注文は2ダースだった筈だが』って言うてはるで」
「何、本当か?ワシ、もう4ダース作ってもうたがな!」
「じゃあ兄ちゃん、これ次の注文まで寝かしておこか」
「そうやな、またヤーゲンセンさん、注文してくれはるやろ」

100年近く前にオーベール兄弟社でこのような会話があったのかも知れません。

ただ年代から考えてこのエボーシュの在庫はヤーゲンセンの業績不振と何か関係があった可能性があると私は考えております。オーベールのエボーシュ2ダース、24個というのは2,520フラン程度である可能性があります。理由はヤーゲンセンの仕入れ台帳でオーベール兄弟社のエボーシュで「単価105フラ ン」という記帳があるからです。もし写真のエボーシュがそれなら24個で2,520フラン相当の計算になる訳です。

こ んな高価なものをオーベールが好んで不良在庫にしたとは到底考えられません。そこには止むに止まれぬ事情があったと考えるのが自然でしょう。例えば過去納 入分についてのヤーゲンセン側からの支払いが滞ったためオーベールが次の納品を控えた、そうこうするうちにヤーゲンセンの経営が傾いた、支払いを受けられ ないオーベールの経営も傾いた、そして24個のエボーシュは倉庫の肥やしになった、という可能性もあると思います。

ちなみに完成品ヤーゲンセンはこんな感じ。すばらしいの一言です。以上は"Horlogers et montres exceptionnels de la Vallee de Joux"という本に載っていた写真です。

※この本はフランス語で書かれているので内容がよくわかりません。もっとフランス語を勉強して内容を理解したいものだと思いつつフランス語の勉強をしない日々が既に数年間続いております。死ぬまでには読了したいものです。




●マーセル・デプラ独立す

さて、「手短に」と言いつつものすごく脱線しました。申し上げたかったのはスイスの伝統的分業ウォッチ製作はこんなにもコンプリケイテッドなものだったとい う事です。この方法は超高級ウォッチを製作するには最適の方法だったようです。実際この時代のヤーゲンセン、メイランなどのウォッチには溜め息の出るよう な逸品が沢山あります。

ですがこの方法は「ウォッチの更なる普及」という時代の要請に適合するものではありませんでした。高価すぎたので あります。これらの方法でウォッチ製作を していた工房はその後、ほとんど全てが姿を消しました。マーセル・デプラが独立を果たした時代はちょうどそうした旧世代の高級ウォッチ工房が斃れていく時 代でもありました。

「あの方法ではオレの未来は無い」

マーセルがそのように新時代の空気を感じ取っていてパウル・オーベールに身を投じたのだとしても不思議は無いと私は思います。

ところが皮肉な事にこのオーベールの試みは全く成功しなかったとDD本にはあります。マーセルと経営者との間にも意見の相違があったらしい。ただマーセルはオーベールの目指した方向そのものについては確信を持っていたようです。

「こんなんならオレは独立して自分ひとりでやってみせるよ」

という事で生地リユーに戻ってマーセルは自分の会社を興したのでした。正式な会社名は、

"Marcel Depraz, Societe individuelle"

敢えて日本語にすれば「マーセル・デプラ個人会社」というところでしょうか。マーセル・デプラの工場、と呼ぶには余りにささやかなアトリエは何かの部品製作 所跡を転用した物でした。全然立派な場所では在りませんでしたがとにかく1901年1月1日、マーセルはここでウォッチ製作を始めたのでありました。

(つづく)


※上の写真は1901年の独立時に工房前で撮影されたもの。マーセルとその妻エリーゼ(Elise)。マーセルは27歳とは思えない風格。
*La maison Aubert & Fils fait des tentatives pour introduire dans sa fabrication la terminaison complete du produit.
(あちこちの文脈を辿るにこの『完成品』とは『クロノグラフムーブメント』および『リピーターウォッチムーブメント』の完成品という意味のようで通常の三針時計のことは除外している模様)

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3 件のコメント:

  1. デプラを調べていたらたどり着きました。大変興味深い内容でした。続きを期待しております。

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