2009年8月19日水曜日

ブレゲとジョン・アーノルド(6)

__________________________________________________________________

●デタッチド・シリンダー・エスケイプメント

-The Detached Cylinder Escapement-

マリンクロノメーターを集中的に研究した人でルパート・グールドという有名な人がいます(Rupert T. Gould/1890-1948/ 英海軍時代の肩書きから"Lieutenant Commander Gould" とか単に"Commander Gould"と呼ばれる事も多い)。映画"Longitude"において主要登場人物としてハリソンのH1の復元をしていたりしたのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

この人が1923年、33歳にして"The Marine Chronometer -It's History and Development"という本を上梓しました。90年近く前の本ですが素晴らしい内容の本であり、その後の全てのマリンクロノメーター研究の基礎となったと思います(その後刊行されたマリンクロノメーター関連の書物でグールド本の業績に言及していないものはまずない)。

※画像は1924年のグールド氏

さて、このグールド氏が192464日にスイスのパウル・ディティシャイム(Paul Ditisheim)氏に書いた興味深い手紙が残っています。クロノメーター研究史上重要な手紙ですので以下、少し訳してみましょう。


(訳はじまり)===========================
私は貴殿に歴史的クロノメーターとしては珍しい発見について詳細をお知らせしたく、この手紙をしたためています。その功績の大半は私ではなく、貴殿もご存知と思いますが、チェンバレン氏に帰せられます。しばらく前「アーノルドらしきクロノメーター・ムーブメントをロンドンのショップで見かけた。後世の発明家によって実験されていたものだと思う」と彼が伝えて来ました。「何故そのとき買わなかったんだ」と聞くと「持ち運ぶには嵩張りすぎていたしそこまで重要とは思わなかった」との事でした(訳注:チェンバレンはアメリカ人。持って帰る気になれなかったもののようです)。

そこで私はそれを見に行き、結果としてそれを購入しました。ざっと調べた段階ではそれがどの程度のものか正確には判らなかったのですが、やがてそれは見れば見る程とんでもないものだという事が判りました。くまなく調べた結果は以下の通りです。

このクロノメーターは一度も改造されていません。ジョン・アーノルドによって作られた最も初期のクロノメーターのひとつです。私は1768年製と見立てました。これは現在最も初期のものと考えられている王立協会(the Royal Society)に保存してある二つの(アーノルドの)クロノメーターよりも確実に古いものです。

地板にも文字盤にも名前は入っていません。しかしながらバランスやコンペンセーションの作り方、箱の構造など1ダースもの点において、これはアーノルドでしかあり得ないと断言出来ます。これは王立協会の二つのクロノメーターに酷似していますがしかし、そのメカニズムはまだ荒削り(primitive)なものであります。私はこの詳細を、もし可能ならば、貴殿の本に掲載される場所があるかも知れないと思って書き送っています。

ムーブメントとバランスの配列はハリソンのNo.4を思わせます。すなわち、この時計はセンター・セコンド、ムクのスチール製の軽量/三本ウデのバランスと平らなバランススプリング(平ヒゲ)を有しております。

(中略)

脱進機は、私の経験の及ぶ限りにおいて、全くもってユニークなものです。それは言うなれば「デタッチド・シリンダー」(detached cylinder)とも呼ぶべきものです。バランススタッフ(訳注:テンワの主軸部分)は一見したところ通常のシリンダーを有しているように見えます。ところが詳細に観察してみると、そのシリンダーのインパルスフェイス(訳注:シリンダーを切り欠いた部分で脱進機のトゥース-tooth-により駆動力を受ける部分)は二つの小さなローラーにより形成されています。そして脱進機の休止はシリンダーの内壁は全く関与しないのです。衝撃を発生しない時、エスケープ・ホイール(ガンギ車)はレバー脱進機のようにフォークのついたアームによって駆動されるアンクル(anchor)にでもってロックされます。このアームはバランススタッフのローラー上のピンによって動作します。

(中略)

このムーブメントは私の考えでは私が見た中でもクロノメーターの歴史上最も注目すべき証拠となるものです。

このムーブメントはアーノルドがその最初期においてセンターセコンドハンドの採用、コンペンセーションカーブの採用から輪列配置にいたるまでジョン・ハリソンNo.4の影響下にあったという事、そして最も初期においてさえ彼がデタッチド脱進機の必要性や歩度の調整幅を持たせる事の必要性を認識していたことを示しています。

私は後日、ムーブメントの写真、そして現在修復洗浄中の機械そのものを貴殿にお送りしたいと思います。
===================================
(訳おわり)
(*1)


私はチェンバレンやグールドが「これはアーノルドでしかあり得ない(it can only be an Arnold.)」というのならその通りだろうと思います。特にグールドの挙げた根拠は説得力があります。また同じくグールドの1940年の注釈によれば、

「このバランス(ホイール)はハリソンのNo.4に使われているものの殆ど複写である。コンペンセーションカーブも同様である」
原文 "The balance was almost a facsimile of that used on Harrison's No.4 - so was the compensation curb..."後略

との事であります。コンペンセーションカーブは構造も長さも殆どH4と同じだったそうです。ジョン・アーノルドがクロノメーターの実機製作を始めた最初期においてはジョン・ハリソンのH4を参考にした、もしくはその模倣から出発したのは明らかというべきでしょう。ただ、脱進機そのものの構造についてはハリソンのものを全く参考にしていない点は注目に値します。

さて、ここで大問題となる事がひとつ。それは「何故ジョン・アーノルドはH4の構造を知る事が出来たのか?」という事です。実機研究なくして「殆ど複写」という程の機構の実現は困難な筈ですが、そもそもジョン・アーノルドは1765年のH4の内部構造公開に立ち会っておりません。公式的にはジョンはH4の内部構造を知り得る立場に無いのです。それでは何故アーノルドはハリソンH4の構造を知る事が出来たのでしょうか?

(つづく)

__________________________________________________________________

(*1)
この手紙はマーサー本のP.16-17に紹介されています。「デタッチド・シリンダー脱進機」の構造については英文を読む限り、おぼろげにしか判りません。特にエスケープ・ホイールを止めるアームの構造が不明確です。残念ながら第二次大戦中にこの「アーノルド・プリミティブ・クロノメーター」は失われており、現在ではそれを確かめる術がありません。

また、ディティシャイムが自分の著書にグールドから供給された写真を使用したかどうかも不明。ネットで検索するとディティシャイムのいくつかの著作が見つかりますが全部フランス語である上に、11,200ドルもしたりするのでとても購入する気になりません。

余談ですがこれはコマンダー・グールドがチェンバレンと友人だった事、そしてアフィックス・バランスで有名なパウル・ディティシャイムとも親交があった事を示す興味深い手紙だと思いました。チェンバレンというのは"Major" Paul M. Chamberlain、有名な"It's About Time"の著者です。

尚、Clutton & Danielsの著書"Watches"においてもこのデタッチド・シリンダー・エスケイプメントがアーノルド最初のクロノメーターと記載されています。

また、手紙文中にある「王立協会の二つのクロノメーターとは1773年6月以降のキャプテン・クックの南極探検航行供されたアーノルド初期のクロノメーター"No Number"と"No.1"のことです。この二つのクロノメーターについては後日詳説いたします。

__________________________________________________________________

3 件のコメント:

  1. ビッグネームの意外な繋がりが面白いです。
    現物が失われてしまったのは残念ですが、
    このように過去に試作されて消えてしまった脱進機も
    色々あるのでしょうね。

    H4にはルモントワール機構が搭載されていますし、
    G_Georgeさんの説明文からも、なんとなくルモ系の
    匂いを感じます。まぁ半分は私の期待ですが。(笑)

    返信削除
  2. 意外な事にアーノルドはH4において採用されていたルモントワールを使っていません。

    恐らくコストと簡便さを考慮した結果だと思われます。アーノルドはH4を研究して「これは高くなる」と思った機構をバッサリ切り捨てているようです。このあたり、アーノルドはドライな現実家というイメージもあります。

    アーノルドの脱進機詳細については続編において明らかにされるでありましょう!続けばの話ですが。

    返信削除
  3. ルモ使ってませんか・・・残念。orz
    脱進機詳細ワクテカでお待ちしてます!

    返信削除